智幸さんの切迫した『悪い、今日は帰れない』の一言で俺は2~3日放っておかれる覚悟をした。
少し前から智幸さんが親父さんと慕う師匠が倒れて入院したのは知ってるし、智幸さんと奥さんと二人で病院に泊まり込んで様子を見守っているのは聞いていた。
あの人には俺も本当に世話になったのだ。
「智幸さん、俺も仕事終わったら行くよ」
たぶん今夜があの人と最後に話せる日だ。
智幸さんと一緒になるために事務所を出ることを肯定してくれた最初の人だったから、せめてありがとうの一つも言いたかった。
『分かった、無理すんなよ』
電話が切れると携帯の時計は夜の9時過ぎになっていて、ああもう夜だったのかと気付く。
一日中撮影所にいると時間の感覚が鈍くなるな、と小さく息を吐いた。
あともう少しで俺の分の収録が終わる。そうしたら急いで向かおう。

そんなことを考えながら仕事してたら終わったころにはもう夜11時近くになっていた。
(仕事中は仕事の事だけ考えろって智幸さんに怒られるな)
荷物の詰まったリュックサックを背負って撮影所を出ると呼んでいたタクシーに飛び乗った。
カーラジオからは伝説の芸人が遺した名曲・浅草キッドが流れてくる。
若い貧乏芸人の青春を歌ったその曲がまるであの人を送る葬送曲のようにタクシーに響く。
裏道を使って病院まで飛ばしてくれた運転手に多めのお代を渡して「おつりはいいから」と言って病院の夜間受付に駆け込んで病室のドアを蹴とばすように開ける。
白いベッドに横たわるその人は蹴とばすように開いた扉に反応して俺を見た。
「お久しぶりです。あの、ほんと、今までお世話になりました」
そう告げるとふっと満足げに笑うと酸素マスクの向こうの口がぱくぱくと動いた。
何といっていたのかは分からないけれど、俺の目には『頼んだぞ』と言う風に見えた。
そうして心停止を告げる高い電子音とともにその人の生命の灯がふっと途切れた。

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「ありゃー完全にお前の事待ってたなあ」
岸菜さんがぽつりとつぶやいた。
実は夕方からずっと病院にいたという岸菜さんと帰りのタクシーを待ちながらそんな話をした。
「そうなんですか」
「来ていた人間全員に一言遺してくれたんだ、俺には『前だけを見ろ』晴央には『相方は大事にしておけ』って」
「……じゃあ俺は、智幸さんを託されたんですかね」
「親父さんらしいなあ」
岸菜さんがハハッと笑う。
タクシーが到着したころ、智幸さんと斎藤さんに支えられておかみさんが降りてくる。
暗い場所でもわかるほど湿っぽい目をした智幸さんに俺は何ができるだろう。
四人しか乗れないタクシーに先輩たちとおかみさんを乗せると「私はひとりで歩いて帰るよ」と言ってドアを閉める。
「俺も一緒に「……いや、一人でいい。先に帰って部屋温めといてよ」
そう言って智幸さんだけが病院に残っていく。
去っていくタクシーの窓からその様子を見つめていると、遠くで智幸さんが泣き崩れているのが見えた。
タクシーの車内にはやっぱり浅草キッドが流れていた。



作中局の浅草キッドはここを参考で
何か唐突に思い付いたはなし