豊さんの64歳の誕生日の夜は雨がとめどなくよく降っていた。
甘口の白ワインは飲みやすくてつい酒が進んでしまい「もう来年には定年なんですねえ」と僕が呟く。
「今度からは豊さんがおかえりって言ってくれるようになるんですね」
「その事なんだけど」
「はい?」
「俺は定年したら青森に帰るって決めてるから、充希君もどうするかちゃんと考えて欲しい」
僕がいまいち吞み込めないままその顔を見ていると豊さんは続きの言葉を紡いでくる。

「充希君の選択肢は三つ。
1、青森についていく。その場合は仕事をどうするかとか、家族とのこととかもちゃんと考えて欲しい。
2、青森にはついて行かないけれどこの関係を続ける。この場合は遠距離恋愛?遠距離婚?まあ、そういうことになるかな。
3、これで一つの区切りとしてすっぱり別れる。これも一つの選択だと思う」

豊さんはグラスワイン一杯程度ではさほど酔わないひとだから、顔色はいたって冷静だった。
「こうやって一緒にいるのは好きだけど、永遠に一緒にいられるわけじゃない。俺はもう還暦過ぎてこの先どんどんおじいちゃんになるし、いつかひーちゃんが俺を置いていったように、俺も充希君や秋恵を置いていく側になるんだから」
一度も考えた事のなかった事をぶつけられて僕は思わず考え込む。
ずっとこの日野の街で暮らせたらいいと思っていたけれど豊さんの故郷はここじゃない、青森県弘前だ。豊さんの生まれ育った地元に対する愛情の深さは僕もよく知っていたつもりだし、そういう選択だってあるだろう。
なにより年齢的に僕は豊さんに置いていかれる側なのだ。
「別に今日明日答えてとは言わないからちゃんと考えて欲しいんだ、そのうえで出した答えを俺は受け入れるから」
豊さんは駄々をこねる子どもに言い聞かせるように優しく僕に告げた。

***

翌日、無人のオフィスで自分の名刺を見返してみた。
子どものころからスポーツを見るのが好きで漠然とスポーツ業界に行きたかった。
高校三年間を好きなチームでのバイトに費やし、身近にスポーツを仕事にする人たちを見て選んだのがデータサイエンスの領域だった。
必死の大学受験やしんどい就活を経て、スポーツアナリストになりたくて今の会社に入った。
ラグビーのデータ分析は日本だとまだ研究の進んでない領域だったから、海外の専門書はもちろん野球やサッカーのアナリストの先輩たちの背中を見て学んできた。
ラグビー専門のアナリストとしてやれるようになったのはまだつい最近な気がする。
うちのオフィスで一番新しいラグビーのデータ分析室。僕を慕う後輩たち、良き先輩や同期も得た。
「この肩書を手放すのかぁ」
ラグビー分析室チーフアナリスト。自分に与えられた肩書の文字は確かに僕が積み重ねて得てきたものだ。簡単に捨てるには惜しい。
「おはようございまー……あっ」
ここでは一番長い付き合いの後輩である甫坂くんと目が合う。
高校までラグビーをしていてガタイもよければ足音も大きい彼の存在に気付かないとは、不覚だ。
「あー、おはよう」
「珍しいですね、佐藤さんがこんなに早いの」
「ちょっと考え事したくて」
「即断即決の佐藤さんが悩み事」
まるで天変地異でも見たようなまなざしで僕を見てくる。
「僕の事を何だと思ってるの?」
確かに僕は生来楽天家なほうで大きく悩んだことはない。仕事では出来る限り合理的だったりみんなにとって良い事を出来る限りの想像力を駆使して最善を選んできたつもりだ。
もの選びは自分の身の丈に合っていればそれでよかった、
人生の重要なことを決める判断基準にはいつも豊さんがあった。大学を選ぶときは豊さんと会う時間が確保できるところからデータサイエンスが学べる学校を選んだし、就職も以下同文。
「佐藤さんはいつもやりたい事・出来る事しか選ばない人だと思ってたので」
「まあ、そうだね。苦手なことは全部できる人にお任せしてたし」
「いつも通り素直に決めりゃいいじゃないですか」
素直な気持ちを言うのなら、豊さんも仕事も捨てられない。
この件についてはまだもうちょっと悩む時間が必要みたいだ。
他の後輩や同期がオフィスに来る時間が差し迫ってきていた。