私が「議員」「選挙」というものにはじめて触れたのは、近所に住んでいた中村旭さんという町議会議員の選挙のことでした。祖父母に連れられて選挙事務所に行った記憶があります。はっきり覚えているのは小学校低学年の頃、更にぼんやりと覚えているのはその前の選挙です。長久手は町議会の時代から統一地方選挙でしたので、計算してみると、はっきり覚えているのは1987年、ぼんやりと覚えているのは1983年の選挙と言うことになります。
もちろん、小さな頃ですから「議員」「選挙」と言っても詳しいことは何もわかりません。近所の人たちが集まってワイワイやっていた、でも普通のお祭りとは違う、そんな雰囲気でした。
そんな中でよく覚えているのは「住みよい長久手町を」という言葉でした。大人になってから調べてみると、中村旭さんのスローガンだったということがわかりました。中村さんには子供会で棒の手を教わった記憶があります。随分前に亡くなられましたが、お墓は我が家のお墓の隣にあります。中村さんのリーフレットを見ますと、透析を受けながら身体障害者の立場で議員活動をされていたことがわかります。
「住みよいまちづくり」は今でも多くの政治家が掲げるスローガンで、実際に長久手市は「住みよいまち」のランキングでは全国でも上位に入るまちになりました。しかし、少し前まで長久手は「不便なところ」と言われており、昔から陶磁器産業で栄えた瀬戸市などと比較して、「お金がないまち」という扱いでした。周辺の市町から、気の毒がられていたという話もあります。無医村だった時代もあります。子供を名古屋の医師に見せに行って、帰ってくるときに親の背中で亡くなっていたという話もあります。臨床医が少ないために、名古屋大学医学部の関係者に頭を下げて開業してくれる医師を探し、地元で土地などを世話して来てもらったという話も祖父から聞いた記憶があります。
そう考えると、「住みよい長久手町を」というかつてのスローガンは、中村さんだけでなく、多くの地元住民の切実な気持ちを表したものではなかったかと思えてならないのです。長久手が「住みよいまち」として認知されるようになったのは、本当にこの十年くらいのことですから、私の祖父母より上の世代には別世界に見えるかもしれません。
同時に、かつて栄えた市町村が、産業の衰退や企業の撤退、同じ世代の住民が一気に住み始めたことによる高齢化などで、難しいことになっています。北海道の夕張市がよく知られています。
現在の長久手市は「住みよいまち」として、移り住んで来る若い世代も同世代の中では雇用や賃金が安定している人たちです。しかし、長期継続雇用が失われつつある今日、安定した収入・生活を維持できるかは不透明感が増しています。
だからこそ、今の繁栄にただ満足するのではなく、将来に渡って持続可能な、問題を早期に発見して寄り添える市政が必要であると考えます。