今日もこの日がやってきた。

あれから6年。

長いような短いような。

こども達をみれば、それだけの月日がすぎたのだと、実感するけれど、

心はあの時を行ったり来たり。

震災時、震災後、落ち着かず大変だったと感じる日々を忘れたい、でも、

忘れたくない。

相反する感情が去来する。

時はどんどん過ぎていく。

過去に力は与えない!

震災に意味は与えず、出来事として、うけとめる。

笑顔になれる思考を送り出し続ける!

 断水の間、蛇口のついたポリタンクが重宝しました。

震災前は、海水浴の時ビーチで体を流したりするのに使っていたものです。

給水車が、近くの学校に来てくれていました。確か、新潟県からでした。

行列に並んで、もらえるのは1家庭12リットルほど。

飲料水や料理に使えばあっという間になくなってしまいます。

 

 洗濯などは、たまたま通りかかったところで、ふだんは使っていないけれど、上水道が

でている場所を見つけて、自宅からは遠いけれどわざわざ行って、くんできた水をつかったりしてました。

お風呂も入れないので、タオルで体をふいたりするくらいでした。

 そんな生活が4週間ほど続きました。

 

 学校は、水道が出ないのでしばらく休校でした。春休みが1か月以上ありました。

津波の被害はなかったけれど、余震でかなり大規模に損壊しました。

学校にこどもがいない時でしたが、その時こどもがいたら、かなりのけが人が出たことでしょう。

 幼稚園や学校の先生が安否確認に来てくれました。

 

 やっと、学校が再開した後も使える教室が限られていたため、学年によっては

50人以上がひとつの部屋で、授業を受けたりしていました。

 

 

 

 東日本大震災の翌日、山形出張で足止めされていた、夫が帰ってきました。
再会を喜ぶのもそこそこに、食材の調達です。
 
 
震災2日目もまだ停電なので、冷蔵庫も当然ながら使えません。
まずは、冷蔵庫の中のものを、発泡スチロールの箱に保冷剤を入れて
うつしました。
 
 
それから、買い物へGOです。
スーパーはどこも大行列です。
でも、これだけの大災害にもかかわらず、みんなきちんと並んで待っていたので
それだけでも、よかったと思います。
近所の小さなスーパーでは、なんとか、カップ麺を箱で買うことができました。
野菜類も少し。
 
 
ちょっと遠方の大型スーパーでは、駐車場にテントを出して、食料品セットとか
日用品セットとして、販売していたように思います。
レジも使えませんから、500円セットとか1000円セットとかだったように思います。
 
 
停電が解消したのは、3日目か4日目の夜中だったと思います。
それまでは明かりも暖房もなく、夜はろうそくで過ごし、さっさと寝てました。
 
 
食事はIHコンロも電子レンジもトースターも使えませんから、カセットコンロで
煮炊きしてました。豚汁とか煮込みうどんとか、カップ麺とか1品料理です。
なるべく、洗い物が少なく済むようにしてました。
食器はお皿にラップをしいたり、紙皿を使ったりしました。
今は仙台の Date fm でサバイバル飯=サバ・メシが載っている防災ハンドブック
もあるようです。
 
 
 
 
断水はかなり長期化しました。
車で20分くらいの湧水をくみに行ったり、川でトイレ用の水を汲でいる人も
多くいました。
同じ町内でも場所によって水道の復旧具合には差があり、復旧済みの公園
の水道で水を汲んだりもしました。
 
 
断水で、トイレを流すときはトイレットペーパーをいっしょに流さずに、
紙は別にごみ袋を用意して捨てていました。
紙を流すには、大量の水が必要で、つまりやすいからです。
 
 
断水の間は、蛇口のついたポリタンクが重宝しました。。。
 
 
 仙台で東日本大震災で被災しましたが、あまり、考えないように
してきました。
 でも、最近ふと、思い出すので少し吐き出して整理する
ことにしました。
 
 2011.3.11 当日続きです。
夫は山形に出張中で、道路が通行止めになったので、
帰ってくることができませんでした。
 
 
 こども達とは、無事再開できましたが、停電・断水です。
うちは、オール電化なのでガスは使いません。
3月というのに雪が降っていてとても寒い日でした。
停電で暖房が使えないのはやはり、きびしいです。
震災のあと、しばらくして、思わず、電源がなくても暖がとれる
のでなつかしい反射式石油ストーブを買いました。
 ファンヒーターとちがってほわっと包まれるようなあたたかさで、
気持ちいいです。煮炊きもできますし。
 
 
 たまたま、親戚が近所にいたので当日は避難させて
もらいました。
 そのおうちでは、車から電源をとってTVを見ることが
できたし、ケータイのワンセグで、津波のニュースなども
見たはずですが、記憶がすっぽり抜け落ちています。
 ただ、TVで地震のニュースをやっていた、という記憶だけは
あるけれど、その時どう思ったかとかは記憶がないです。
 
 
 実家は福島です。その時は原発のことなんて、想像もして
いませんでした。実家の両親とは安否確認できました。
夫の実家とも連絡がついて、みんな無事だったので、
とりあえずは、ほっとしました。
 
 仙台→福島 間は、メールは一応つながりました。
通話はつながりにくかったです。
関東の友達とは、震災後何日もつながらなくて、心配かけました。
関東から仙台へのメールは届いてましたが、こちらから送ったメールは
なかなか届かなかったみたいです。
 同じ関東でもわりとすぐ届くものとなかなか届かないもの
がありました。
 
それから災害伝言ダイアルは、利用できたので普段から
家族で使い方を確認しておくといいと思います。
 
 食事は、夜は親戚宅であったかいうどんをごちそうになりました。
小さいこどもがいたので、とてもありがたかったです。
翌朝は無洗米でご飯を炊いておにぎりにしてもらいました。
 カセットコンロが大活躍してました。
 
やはり、日頃の備えは必要ですね。
我が家でも、宮城県沖地震に備えていくらかは用意してたので
役にたちました。
でも、 最近、ちょっと、とどこおっているかも。
 食品類や、水は期限があるので、先入れ先出しのローテーション
で管理するといいそうですが、なかなか・・・
一度そろえてしまうと、安心してしまって、そのままということになりがちです。
 
 翌日、日が高く昇ったころ、やっと、夫が帰ってきました!照れ
 
まだ、続きます。。。
 

 仙台で主婦してます、ミノリといいます。

30代です。夫と小学生の娘と中学生の息子がいます。

 

 今まで、東日本大震災のことはあまり考えないようにしてきたけど、

最近、ふとした瞬間に思い出す、フラッシュバック?ので、

少し書いて吐き出して、心の整理をすることにしました。

 

3.11当日は自宅でひとり、娘が幼稚園バスで帰ってくるのを待っていました。

玄関にいると、突然の激しい揺れ!

立っていることなど、できません!!

 

少し揺れがおさまってから、リビングにもどり

夫に電話しました。

夫はその日、山形に出張だったのです。

無事につながり、安否確認できてほっとしたのも

束の間。

何度も何度もおそってくる余震に、生きた心地もしません。

当時は、30年に一度の宮城県沖地震がいつきてもおかしくない

といわれていた時期で、

「これが宮城県沖地震なの? ついにきたの?」

と話してました。

 

夫は山形市内のスーパーの駐車場に車を止めていましたが、

そこも揺れはひどく、

「スーパーの中から人がいっぱい走り出てきた!」

と言ってました。 

 

とりあえず、夫との電話を切って自宅にいると、

幼稚園バスが自宅の前にとまり、娘が帰ってきました。

その時は、本当にホッとしました。

娘は不安げでしたが、泣くこともなく無事にもどってきてくれました。

 

今は、地震がきたらバスは幼稚園に戻ることになっているようですが、

その時はいつものように送ってきてくれました。

バスの先生と「大丈夫でしたか」という、一通りのあいさつをしたあと、

話しもそこそこに、次のお宅へ向かわれました。

 

 今度は、息子の迎えに小学校へ行かなくちゃなりません。

 そうこうしている間もしょっちゅう余震がおきます。

おそるおそる、車を出すと停電で信号は消えていました。

 

学校につくと、体育館で待機していた当時小学1年の息子に会うことができました。

娘を待ったりしていたので、他の迎えの保護者の方に出遅れてしまったようで、

息子はかなり待ったのですね。

半泣きでした(>_<)

 

無事、子供たちとは再会できましたが、夫は、道路が通行止めになったので、

帰ってくることができませんでした。

 

このつづきは次回へ・・・