旅行行きたい所✈️

武蔵の聖地だったりFGOの武蔵ちゃんの聖地だったり(勝手認定もあり)




(岡山)

大聖寺(NHK宮本武蔵とお通の像あり)

岡山城(宇喜多秀家の城、彼の有力家臣でえる新免家の家老であった武蔵の祖父将藍と無二斎が仕えた)

竹山城(新免宗貫の居城)

新免宗貫の供養塔(武蔵の祖父と父無二斎が仕えた相手)

顕密寺(下総プルガトリオにて言及、)

岡山県立美術館

武蔵山牢跡

本位田外記之助の墓(無二斎に殺された)

牛窓港(武蔵が海路九州へ逃れた)

日名倉山牢(姉お吟がとらわれた場所)

武蔵の友森岩彦兵衛の墓を通る鎌坂道(幼友達と登った)

武蔵の兄。次郎大夫の墓碑(大原町川上)

無二斎の墓(〒707-0421 岡山県美作市川上。後年の無二斎の居住地といわれている)

田住家跡(武蔵の母親の一人幼少の武蔵を連れ子として後妻となって継いだ田住家の家跡)

利神城跡(武蔵の母親の由縁の地。別所家の母体)

平福宿(養母の卒子、師匠の道林坊と別れ)

正蓮庵(武蔵が預けられた寺)

中山峠集落(少年武蔵が行き来した)

大原宿(因幡街道 少年武蔵が歩いた)

佐用都比売神社(武蔵が木刀を二振り捧げて自身の武運を祈願した)

武蔵神社

宮本武蔵駅

宮本武蔵銅像(淀橋)

壱貫清水(武蔵が親友森岩彦兵衛との別れを惜しみながらここの水を飲んだ「ほんに一貫文の値打ちがあるでな」と言いこの水をのみ峠を越えて言った)

作州武蔵カントリークラブ(武蔵、お通、小次郎の像あり)


(和歌山県)

高野山(子供の伝記全集 宮本武蔵にて、武蔵が弘法大師の名を聞きこころの修行をしに行く)



(東京)

東京都立中央図書館


青永文庫美術館

(武蔵が描いた紙本墨画芦雁図〈(伝宮本武蔵筆)/六曲屏風〉、正面達磨図、鴨図)




(千葉)

徳願寺(武蔵の供養塔、達磨絵や幽霊絵などの書画)

武蔵の角塔婆(千葉県船橋市)

香取神社

永青文庫

土気城跡



(京都)

八大神社

一乗寺下り松

蓮華王院 三十三間堂

狸谷山不動院(武蔵の修行した滝あり)

宮本武蔵と吉岡一門決闘の地(大徳寺行き千本中立売 停)

大徳寺大仙院(武蔵の修行した部屋あり)

角屋おもてなしの文化美術館おもてなしの角角屋

光悦寺、本法寺(本阿弥光悦の由縁)

妙心寺(武蔵が愚堂の教えを請いに来た。この場で座禅を組み、書画の素質も養った)

華山寺(剣禅一如を閃いた愚堂の最後の場所)

東寺、観智院(武蔵が筆を取った場所、吉岡から匿われた。武蔵の描いた竹林図、鷹の図。がある)

蓮台野、上品蓮台寺(清十郎との試合)

(大徳寺行き千本鞍馬口 停)

吉岡道場跡「今出川西洞院通り」

宝塔寺(伊織とその弟玄晶が立てた供養塔、宮本武蔵伊織貞次 墓)

吉岡決闘の碑

常照寺(武蔵に登場する吉野太夫ゆかりの寺)




(奈良)

柳生街道の滝坂道

柳生街道

柳生家家老跡

もみじ橋

芳徳寺(裏に柳生一族の墓、内部には沢庵と柳生宗矩の像)

正木坂道場

正木坂の石道(石舟斎に会いに登った)

般若寺

般若坂

猿沢池(胤栄が練習台とした摩利支天の石がある)

興福寺



(岐阜)

大仙寺(剣禅一如の教えを問いに愚堂を訪ねた場所、江戸での将軍指南役の夢を絶たれた後に愚堂を訪ね立ち寄った場所。武蔵の座禅石あり)

八百津町 役場 円明の滝 二天の滝

五宝滝(武蔵ゆかりの地を演出した公園。二天の滝では武蔵が修行したとも伝えられている)

正伝寺(江戸での指南役の夢絶たれた際に立ち寄った)

天満山、天満神社、宇喜多秀家陣所跡の碑

興禅寺

三峯山(宍戸と戦った)

関ヶ原古戦場開戦地(宇喜多秀家が福島勢と戦った場所)


(広島)

備後国の鞆(とも)ノ津(噂で農民に二刀で対抗した?)

水野勝成の居城、福島城(武蔵が縄張りをした。勝成は常興寺山に平山城を築く際に築城の縄張りに武蔵を招いた、築城奉行中山将監の下で指導と助言を行う)

護国神社、武蔵の腰掛け石(城地と城下の縄張りの際に想を練った場所)



(福井)

佐々木が修行した一乗滝

小次郎公園(たしかではない?)


(山口)

岩国城下の小次郎像

船宿,小林太郎左衛門邸跡(武蔵が巌流島決闘日前に泊まった所)

亀山八幡宮(右隣に武蔵が泊まった船宿あり)。宿主の小林家の屋号伊勢屋小四郎の名が刻まれた鳥居あり


(福岡)北九州市


門司城跡(小次郎の弟子から追われるさいにかけ込み逃げたとされる。細川家家老の沼田延元を頼る)

巌流島

市立しものせき水族館(アシカの武蔵と小次郎ショー)

手向山公園(宮本武蔵の碑、宮本伊織の墓、武蔵顕彰碑)

延命寺(伊織が建設した墓碑あり?)

小倉城

小笠原忠真の墓福聚寺 (彼とは明石城主時代に仕えたことが契機で以後も客分として扱われていた。武蔵が最も長く仕えた大名。彼は剣の宮本武蔵と槍の高田又兵衞(宝蔵院流槍術の祖胤栄の孫弟子)を藩の双璧としていた。豊前国史にはこうある「宮本武蔵政名は兵法日本無双と呼ばれし人、小倉の先の君、忠政(忠真の前名)朝兵法を好給ひて、剣術は武蔵玄信をとどめ、槍法は高田又兵衞吉次を招き、共に師とし、是れ吾藩にて剣槍の両眼と尊びし二人なり。と)

夢想権之助神社(武蔵と相まった棒術の達人)

高田又兵衞の墓(小倉北区、生住寺)

福岡城(城下にて武蔵が島原の乱凱旋後旧知の新免衆に再会した)


(熊本)

島田美術館

武蔵ゆかりの座禅石

西の武蔵塚(寺尾家の墓と会わせて謎の女性の墓が。晩年の武蔵の世話をしていた…?)

本妙寺(西の武蔵塚の付近にある。武蔵と交流があった大淵和尚の出身寺院である)

霊巌堂

熊本城(武蔵の1番の理解者細川忠利が入城した)

千葉城跡(武蔵の居宅があった)

花畑屋敷跡(忠利の住まい)

登城口の須戸口門(武蔵の居宅に近い)

宮本武蔵旧居跡 (熊本市千葉城町2番7号(地図)

熊本県立美術館

熊本市立博物館

立田自然公園、泰勝寺または泰勝院、初代泰勝院藤孝(細川幽斉)公御墓(武蔵の莫逆の友である春山和尚のいた寺、武蔵の供養塔がある)

武蔵の引導石(武蔵が埋蔵される際墓所へ向かう途中杉馬場に来た際晴れていた空が雷で轟きここで春山和尚が引導を渡した。その際の引導石。立田自然公園近く)

武蔵塚公園(弓削にある武蔵の墓、宮本武蔵公園、東の武蔵塚。ここは細川藩主参勤の往還道であり大恩を受けた細川藩公の行列を地下で間近に拝見してその御武運を守護申し上げたいという願望から自分の墓所として選んだ。武蔵茶屋。武蔵武道場)

寺尾孫之丞の墓(熊本宇士市、武蔵の一番弟子。彼は武蔵から五輪書を承った)

寺尾求馬助の墓(武蔵の愛弟子。孫之丞の弟であり兵法三十五箇条を承る。兄より剣筋も優れていたように見える。結果的に兄をしのいで二天一流の正統をまもる。

新免弁助信森の墓(求馬助の四男。武蔵の家号新免と幼い 名弁助をもらい新免弁助信森と名乗った。武蔵の再来と言われるほどの二刀流の使い手であり逸材とされた

春日寺岫雲院(細川忠利の火葬地跡)

妙解寺跡(細川家の苔提寺)

八代市立歴史博物館(長岡興長宛の武蔵直筆書状)

八代城内(武蔵の墓あり?)

茂串海水浴場(決闘巌流島のロケ地)


(佐賀)

湯元荘 東洋館(宮本武蔵の井戸跡)



(長崎)

原城跡(天草一揆勢が立て篭った。武蔵は前線視察の際に一揆勢の投下した石により足を負傷)


(名古屋)武蔵と兵庫助がすれ違った

笠寺観音の武蔵供養碑

笠寺観音(笠覆寺)新免武蔵守玄信之碑新福寺の武蔵

(孫弟子の左右田武助国俊の門弟たちに建てられた)

新福寺(武蔵供養塔あり.円明流の剣士市川六郎右衛門長之が武蔵百四十九年忌(1793年)に建立した武蔵顕彰の碑石。元は新豊寺にあったが廃寺となったため移した


宮本武蔵 旅行


宮本武蔵先生独行道について の案内板

新免政名の碑

田原家跡碑

桶居山

金倉川原


(兵庫)

宮本武蔵の墓(〒671-0218 兵庫県姫路市飾東町庄2)

宮本武蔵修練の滝(たつの市)

鷄籠山、龍野城(武蔵か30代の頃遊歴する。三宅軍兵衛に試合を申し込まれる)

西光寺(高砂市。武蔵と伊織の文武両道像あり)

龍野御坊 圓光寺(宮本武蔵修練之地碑あり。龍野市龍野町下川原、武蔵の後半生に大きな関わりを持つ浄土真宗の寺。境内の剣道場で門弟に剣技を指導。武蔵が修行した。武蔵が招かれ道場主となった場所。円明流とはこの円光寺の円と明石の明を組み合わせて出来た二天一流の別名である)

姫路城(武蔵の妖怪退治の逸話あり。一番弟子酒造之助が務める。昭和20年(1945年)までは武蔵が描いた角力の絵馬がかかっていた)

書写山円教寺 圓教寺 本多家廟所(武蔵の弟子三木之介が主君忠刻の後をおって殉死した供養塔)

明石城(武蔵が町割をした)

明石城内宮本武蔵作庭


日蓮宗本松寺(武蔵が作庭した。滝や亀をイメージして庭を造ったと伝えられている)?

円覚寺(こちらも武蔵が作庭したとされている)

曹洞宗雲晴寺(武蔵の庭園、孫弟子紫任山左衛門と夫人の墓)、天台宗(円)圓珠院(大観町)、天台宗福聚院(武蔵作の庭園は現在みることは出来ない。〒651-2237 兵庫県神戸市西区櫨谷町259)

(四つ武蔵が作庭したとされる)


如意寺(武蔵が修行した?〒651-2237 兵庫県神戸市西区櫨谷)

宮本武蔵・伊織生誕の地碑(高砂市)

泊神社(伊織が建設した。大灯籠あり)

米田天神社(伊織が建設。鰐口を奉納してる)

樹齢700年の楠(太子町、逆さ椋木)

石海神社(太子町)

宮本武蔵生誕之地碑(太子町)

宮本武蔵公園(太子町)

宮本武蔵産湯乃井戸(太子町)

宮本武蔵生誕の地碑(太子町宮本)

本要寺(伊織とその弟玄晶が立てた供養塔)

正覚寺(佐用町)

田原家跡(米田にある生家 高砂市)

ドライブイン武蔵(姫路↔️岡山経路にある蕎麦処)

手打ちそば武蔵(姫路城付近にある手打ちそば処)

とんかつ武蔵(姫路城城下町にあるとんかつ屋さん)

倶利伽羅不動の滝(〒669-2711 兵庫県丹波篠山市栗柄1318−1 倶利伽羅不動の滝)

圓覚山 宗鏡寺、沢庵寺(兵庫県豊岡市にある沢庵宗彭所縁の寺院、) 

お通公園、お通像

花田橋、現代では小川橋




(島根)

松江城(家康の孫、松平直政の城。ここで武蔵の剣術に闘争本能を抱かせ自ら武蔵との立ち合いを所望する。しかし武蔵によって三度まで追い込まれ遂には木刀を真っ二つにされる。折れた木刀の一つは天井に突き刺さる。武蔵の技に感服し門弟となる。が、この話の真偽は難しい


(三重)

高田又兵衞の生家、高田家(この裏山の砦にて産まれた。武蔵は彼と三十を過ぎた頃に出会う。双方とも剣槍に生きる者として承知した仲であり六歳年上の武蔵から又兵衞も学ぶ事が多かった。彼と武蔵は一度だけ仕合いをおこなった。2人の主君である忠真は小倉へ転封の際に2人を呼び寄せて仕合いをするように命じた。一度は拝辞したが忠真はあきらめずやむなく竹製の十文字槍と武蔵は木刀での仕合いをおこなった。武蔵は一刀で戦ったが二度はかわすも三度目で股に入り即座に「さすが又兵衞殿、それがしの負けでござる」と、そしてそれを遮るように又八兵衞が「本日は御前ゆえ、それがしに勝ちを譲って下さったのであろう」と謙遜する。一説にはこの仕合いは一進一退、形勢いずれが有利かと見る間に突然又兵衞が槍を投げ出し参ったと言う。忠真に対し「槍は長く剣は短い。長いものに七分の利があるにもかかわらず三合しても勝てなかった。したがって長い得物を持って戦った私の負けでございます」と、忠真は両者の技量に大いに満足したという。そんな彼に武蔵はいつの日か一振りの短剣を贈ったという)


白樫にある又兵衞の供養塔

岡八幡宮(幼少期の又兵衞の修行地)


(香川)

小豆島オリーブ公園(ギリシャ風車)


(大分)

英彦山(関ヶ原から逃れてしばらく籠った所)