生い立ち(1)

 昭和28年7月18日、沖縄本島に近い亜熱帯の島で私は生まれた。 両親は、小学校の同級生で共に20歳。父は素質に恵まれ、向学心に燃えてもいたが戦中世代で進学は叶わず、島で農業に携わり、大家族の食糧確保に励んでいた。 祖父は師範学校を出て教師をしていたが、戦後の食糧事情は厳しく、教師の給料では男7名女3名の子供たちを養えなかった。それで三男であった父が大家族の食料をまかなうべく農業に励むこととなった。母は、同じ村の出身で、2人の異母姉妹と1人の異母兄がいた。母方の祖母は、3番目の後妻として嫁いだからである。二人の前妻とは死別。そんなわけで、祖母は、4人の女の子を産み、母には、同腹の2人の姉と妹がいた。

 母の男勝りの気性を知るにつけ、この環境によって育まれたものだと納得した。 母方の祖父は厳しい人で、母はしょっちゅう怒られ、一度は、あまりの理不尽さに死んでやろうかと思ったことさえあるらしい。けれど祖母には1度も怒られたことがないそうだ。私自身母方の祖母の思い出といえば、誰にも歓迎されないエホバの証人になったことを告げた時ですら、微笑んで私の話を聞いてくれたこと。ただのいちども自分の人生に対する不満や愚痴を聞いたことは無かった。他人の悪口も一切語らない人だった。
 祖母は70歳なっても元気で、みかんの木に登ってみかんの味を懐にたくさん入れて降りてきて私たちにそれをくれた。99歳まで頭も明瞭で、ボケとは無縁だった。亡くなる前3ヶ月ぐらいは、伏せっていたけれど、その間はお嫁さんと前妻の子供である叔母も娘たちに代わって看病してくれた。皆から神様みたいな人だと惜しまれた。祖母は、自分の名前以外読み書きできない人だったが、私にとって身近な敬愛する人生の師である。
 
 物心ついたときには私は両親と離れて、奄美大島の祖父母と暮らしていた。父の1番下の弟であるおじとは5つ違いで、兄のような存在だった。その頃の思い出といえば、近所の川でエビを手で獲ったこと、薄暗い校舎の下に潜り込んで遊んだこと、ハイビスカスの花を刻んででままごとをしたこと。乾パンの配給があり、それが大きな紙袋に入っていたこと、中学校の校長をしてい祖父に手を引かれて出かけ、焼きたてのパンをもらったこと。そんなことが水の冷たかった感覚と共に蘇る。
 母によれば、私は目の見えない祖父の母親に子守されていたが、動き回ると大変なので、紐をつけてもう片方は柱に結び付けて出かけるのが常だったらしい。そんな状態で、ある日帰ると私は自分の排泄物を口にしていたらしい。そんなことがあって私は母と離れて別の島で働く祖父母に引き取られることになったそうだ。まだ、2歳になる前だったそうだ。
 久しぶりに帰ると、母は、私を畑に連れて行き、お母さんとおばあちゃんとどっちが好きって尋ねる。小さい私は、何も答えず、目に涙をいっぱいためていたらしい、それから母はもう二度とその質問は出来なくなったらしい。