さて、グリーン・フラッシュである。

日没時間の五時前、毎日、父島西端にあるウエザーステーションに通い、水平線上に目を凝らした。数人の観光客がいて、みなカメラを構えているが、僕はただ見ているだけ。グリーンフラッシュは現れたとしても、ほんの二、三秒なのである。この目のカメラに収めるしかない。

しかし、結論を先に言うと、グリーンフラッシュは現れてはくれなかった。余談だが、かの小池百合子なる知事は一回だけの父島訪問で、グリーンフラッシュを見たそうな。なにもかもついた人である。

 

 二、三度通って、顔なじみになった飲み屋があった。カウンター向こうの娘さんが「今日はどこに行きましたか」と聞くから、いろいろと説明したあと、「でも、一番見たいのはグリーンフラッシュなんだ」と言ったら、隣にいた中年の男性が気さくに話しかけてきた。よく日に焼けて、頭に手ぬぐいを巻いている。

「あれは、今の季節、なかなか出ませんよ」

話をしているうちに、僕は自分のうかつさに気づいた。冬は空が晴れ渡ることが多い、と勝手に信じていたのだが、それは内地でのこと。ここは寒くても十五度以下にはならない、亜熱帯の島なのである。つまり春から初夏にかけての気候なのだ。ましてや僕の滞在中は二六度にも達したことのある天気で、Tシャツでないと暑くてたまらないこともあったのだ。夕方は海から水蒸気が上がり、水平線を薄い雲が覆う。よく晴れて落日が見えるときもそうである。

気の毒だと思ったのだろう。男の人は、この島にいると、いろいろな自然現象を見ることができると話してくれた。

たとえば、ディシュ・ムーン。皿の上の月である。月が沈むとき、水平線上に皿のような光の形が出現し、月がその上に乗り、不思議な姿を見せるそうだ。  

女の子が付け加える。

「月と言えば、夜、八瀬川に行くと、水面に月が浮かんできれいですよ。月だけではなくて、星が映るときもあります」

八瀬川は島南部にある川だが、流れているのかどうかわからないほどゆるやかだ。風がないと水面は鏡のようだから、満天の星を映すのだろう。水面の星座。さぞや幻想的なことだろう。

負けじと男性が教えてくれた。

「虹がね、二重になるときはときどきあるけど、この間、三重の虹をみたぜ」

一重目の虹は谷間に、二重目は山と山との間に、三重目は雲と雲をつないだそうだ。

話を聞きながら、僕は思った。今回の訪問で終わりかと思っていたが、五度目もありかな。小笠原訪問である。グリーンフラッシュが最も見やすいのは秋の台風の季節だと彼らは言うのだ。台風一過の水平線に現れるという。

この島では風速七十メートルの台風がくる。わざわざその中に飛び込んでいくのか。悩みは深い。

男性はこの島の人ではない。何をしているかとえば、ここで釣りをするため住み着いてしまったと言う。それも三十五年間。

釣れるのはシマアジ、鰆、石鯛・・・マグロまで釣れるという。マグロ? 磯マグロと呼ばれるマグロである。

釣りばかりしていては食ってはいけないから、ときどき工事現場で働く。島は富裕団体の東京都に属するから、始終、道路工事などがあるのだろう。

男性は焼酎をくいっと飲み干すと、立ち上がってマイクを持った。

歌ったのは、「月光仮面」一曲のみ。いつも同じ曲だそうだ。音程のしっかりした、大きな声で歌い終わると、「じゃあ、また」と去っていった。また明日早朝から釣り糸を垂れるのであろう。

 

毎夕、日没を見たおかげで、いろいろな落日を見た。

ときには、全容を現したまま沈んでいくのだが、その際、こちらに向かって海の上に光の絨毯を敷く。こちらに早く渡って来いといわんばかりのゴージャスな絨毯である。つるべ落としというが、ここの太陽は簡単には沈まない。ゆっくりと一定の速度を保ちながら、水平線上に沈み込み、姿を全部隠してから、水平線の下から別れの壮大なシグナルを送る。雲も、木々も、草も、人間の顔も桜色に染まる。ほんの一瞬なのだが、この瞬間が僕は好きだ。

かというと、まったく姿が見せないこともある。雲の向こうで沈んでいく気配だけが雲の色の変化でわかる。紫色の雲がほんのり明るくなる。光の絨毯の代わりに、海面を渡る風が幾筋もの道を描いて見せる。西南の方からこちらに斜めに向かってくる道だ。東の海はもうすっかり暗い。夜である。西は薄暮の世界だ。そして、紫色の雲は暗転し、太陽がすっかり落ちたことを教える。

ときには、雲の隙間から落日が顔を見せることもある。全部ではない。ごく一部だ。そのときには、雲の隙間からいくつかの光の槍が海面を刺す。槍は消えたり現れたりしながら、太陽の動静を伝えてくれる。

どのような場合でも、太陽は同じ速度で、静かに沈んでいく。あらがうわけでもなく、急ぐこともなく、避けようもなく、ゆっくりと沈んでいく。

コンクリートの階段に一人座りながら、僕はなんとなく納得した。

命が終わるということは、こういうことなのだと。 (終わり)