(エピローグ)

 

 二十年の歳月が流れました。

 トーマは、いま小笠原に住んでいます。ノボワールドのあるじになっていたのです。畑を耕し、ニワトリを飼い、ノボーワールドを訪れる人たちのために飲み物や簡単なお菓子を提供しながら、週に二回はガイドを務めていました。そして、自然文化研究史の人たちの求めに応じ、小笠原の動植物の保護活動にもたずさわっていました。かつてのノボさんと同じことをしていたのです。

 というのも、ノボさんは奥さんをガンで亡くしてから、すっかり元気を失い、腎臓を悪くして内地の病院に入院してしまったのです。そんなノボさんから後を継いでくれないかと頼まれまたのでした。

 人間に戻ってからトーマはしばしば小笠原を訪れ、ノボさんを手伝っていましたから、ノボさんの頼みを喜んで受け入れました。

 ノボさんは、故郷の群馬県・月夜野に戻り、老人ホームに入りました。でも、彼は決して孤独ではありませんでした。トーマがラインで島やノボワールドの状況を映像にして、しばしば送ってくれたからです。彼は島にいるのと同じくらい島の様子を知ることができたのです。

 

 トーマは、パパやママに島に来て住まないかと誘いましたが、彼らは観光客として訪れるだけで、住もうとはしませんでした。とりわけママは、しばらく島にいるうちに、「やっぱり、ここは無理」と言い出すのでした。パパは島の生活がまんざらでもなさそうでしたが、ママと一緒にいる方を選びました。

 

 ノボワールドを継いで間もなく、およそ十年前のことですが、トーマは星乃さんという名の女性と結婚しました。

 星乃さんは、背筋がすっきりと伸び、頭が小さくて、笑うとほんのりとしたエクボが浮かぶ、美しい女性でした。

 星乃さんも、トーマと同じような不思議な過去を持つ、いえ、過去を失った人でした。「どこから来たの?」と問われると、本人はいつもうっすらと微笑んで、「遠くから」と答えました。それでもしつこくきく人には、「本当を言うと、自分でも分からないのです」と正直に告げました。

 けれども、人々は彼女が冗談を言っているのだと思いました。実際には、内地のどこから一人でやってきて、海岸通りのカフェで働き始めた人だと思っていたのです。どこから来たかを言わないのは、よほどつらいことがあったからだと勝手に解釈して深追いはしませんでした。

 

 トーマが星乃さんと出会ったのは、大きなガジュマルの枝に抱かれた小さなカフェで、エスプレッソがおいしいという評判でした。

 そこで働く星乃さんを見たとき、トーマはひと目で好きになりました。口に出しては言いたくないことでしたが、どこかで会ったことのある女性という気がしたのです。 

 実は、星乃さんも同じ思いがしていました。それがいつどこであるのかは二人とも分かりませんでしたが、ひっそりと秘めやかなときを過ごしたことがあるような、おぼろげな記憶の影がありました。

 そのことについて、二人が話し合ったことはありません。話し合っても分からなかっただろうし、その必要もなかったのです。二人だけの大切な玉手箱のようなものと言ったらいいでしょうか。

 これからも二人は、その箱を開くことはせず、心の奥に大切に抱いていくことでしょう。もし、開いたら、中には虹が隠れていて、たちまち空に昇っていき消えてなくなったかもしれません。

 

 二人の間には、女の子がいました。名前は夕香といいます。上品で優雅なお母さんとは異なり、大変活発で俊敏な女の子でしたが、トーマに似た力がありました。人のきくことのできない音を、きき取ることのできる力です。それを知っているのは、本人とトーマだけです。

 今日も夕香は、パパと一緒に海岸に立ち、夕陽を映して桜色に輝く空と、雲と、海の交響楽に、じっと耳を傾けていることでしょう。

 

                    (終わり)

 

自分の中に二つの気持ちがあり、どうしても折り合わない。これを何と言うか分かるか。矛盾だよ。

生きるということは、この矛盾と一緒に生きるということなんだ。

 

 

 

 

 

ご報告

水木 楊は、上毛三山の山なみに囲まれた、群馬県高崎八幡霊園の新生会霊廟に昨秋より永眠しております。

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