受の事

稽古において受とは取りの技を受ける側の事です。単なるやられ役になるのは受ではありません。

 

稽古において取にやられる事に浸ってしまう人がいますが、上達する人は取と自分の状態がどうであるか集中しながら毎回受をとれる人です。

上手の人が受になるのであれば下手の取りを導く受けを、下手の人が受になるのであれば取の中心を感じながら受を取るのです。

そのような集中した受と取を交互に繰り返して上達していくのです。

 

中心の事

最近の感覚からすると中心というのは不安定なのです。一瞬たりとも同じ位置にない。変わり続ける世界の陰陽のバランスを保つ中心であり、その中心に集中すると確かに廻っているのです。

自分勝手でもあり、相手を受け入れている状態でもあり、それが絶妙なバランスで在り続ける。内と外の世界とのギリギリの境界に立ち続ける感覚でしょうか。不安定で仕方がない。逆を言えばその状態こそが絶対的な安定なのかもしれません。

 

鬼一法眼の【来たるを迎え、去るは送る、対すれば相和す。五・五の十、一・九の十、二・八の十。大は方処を絶し、細は微塵に入る。活殺自在 】は諸法の理を現す言葉であると思います。常に流動する世界において、自由に動く為には常に二つの世界の中心の一点に居続けるしかないのです。