子育てで最もコントロールが必要とされる概念は、怒りであると思う。
「怒りを制するものは、子育てを制す」
と言ってもいいくらい。
とにかく、子育て中は何につけてこの「怒り」と対面することが多い。
この「怒り」が存在するために、自分の思う理想の育児からかけ離れていく。
そもそも、怒りの原因は何か。
これはもう、相手が自分の思うように行かないことに尽きる。
何を進めようと思っても、それがたとえ子どものためになる行動でも、とにかくスムーズにいかず、邪魔をされ、手間をかけられ、泣かれ、責められる。
子どもにこちらの意図なんて伝わらないし、そんなことは知ったこっちゃないという態度で、彼らは平気でこちらのお膳立てしたものを破壊していく。
何でもきちんとやりたいなんて思った方が負け、とでも言わんばかりに。
とにかく、育児というものは、打ってくるボールをなりふり構わずに打ち返す、この作業の繰り返しである。
私の場合、元々の性格がきちんとしていないと気が済まない方なので、そんな自分に嫌気がさして、ますます怒りは増大していった。
そんな時、考えた。
「怒り」は、どうすれば治まるのか?
その方法は簡単だ。
とにかく怒らなければいい。笑
怒らないと決めること。
いつも穏やかでいること。
そうすれば、子どももこちらへの報復が馬鹿らしくなって、いつかは止めるだろう。笑
親子共に、穏やかに過ごせるに違いない。
でも、その、怒らないでいることが、何と難しいことか。
そんなことができれば、そもそも悩んでない。
どうしても、子の度重なる攻撃により、自分が根底から脅かされるくらいに危機的状況になってしまうので、怒りはいつでも噴火寸前のところまで来てしまう。
しかし、ある日ふと気づいた。
怒らないと決め、それを実行するには、ちょっとした思考の転換なのかもしれないと。
その転換方法は、いたって簡単。
子育てを「降りる」ことである。
子どもをしつけようとすることを「辞める」こと。
自分が怒りに任せて何をしでかすか分からないような危うい状況にいるのなら、子育てをいったん中止するしかない。
そして、気持ちの上で、目に見えない誰か(神様?)にでも預けてしまうのだ。
食べ方が汚かろうが、暴言を吐こうが、物を失くそうが、多少のことは、自分ではなくて、社会がそのうち指摘してくれると思えば、心がスっと楽になる。
そもそも、我が子を立派な大人にさせようとして、独り立ち出来るように、大人は躍起となる。
どこに行っても困らないように頑張ってしつけようとするから、全く思うようにいかない子どもに対して怒りが湧いてくるのだ。
だから、子育てをいったん降りて、自分一人で担おうとすることを止めること。
子どもは、親に言われるよりも、他人に言われた方が何倍も響くものだし、周囲とのやり取りの中で学ぶことも多くある。
親が全責任を負おうとしなくても大丈夫なのである。
私がそうなのだが、何でも自分の責任のように思ってしまう親は、子どもが何かしでかして指摘を受けるのを恐れている。
子育ての評価が、あたかも自分に対する評価のように錯覚している。
だから周囲の迷惑にならないように、ひたすらに頑張ってしまうのだ。
だが、親の厳しいしつけは、逆効果を生みやすい。
言えば言うほど、子どもの心は離れていく。
子どもと親のベクトルが違っているのである。
だから親は、社会を信頼して、社会に子どもを育ててもらう、くらいの気持ちでちょうどいいのかもしれない。
自分がきちんとしなくても、社会が立派に育ててくれると思えば、なんと肩の荷が下りることか。
子育ては、自分への評価でも何でもなく、一緒に楽しみながら生きるという、本来喜びのあるもののはず。
自分が、その波に乗っていないな、と思えば、どうやったら楽しくなるかを考えればいい。
砂浜に寝転んで、一緒に空でも見るか。
ビーチパラソルでも出して、一緒にジュースでも飲むか。
いったん休憩して、また次の波に乗るか。
世の中に、自分の思い通りにいくものなんてそうそう無いから、周囲に、社会に任せてのんびりやる方が、イライラもしないし精神衛生上良い。
どんな結果になっても、それは自分一人で背負い込むものではなく、そうなるべくしてなったのだ、と思うようにする。
そうすれば、必要以上の怒りは湧いてこない。
一生懸命生きている。
それだけで、何も怒れることはないと気づく。
おりん。笑
宿題の前に使うと効果的。笑