いつからこんな気持ちになったのかなんて覚えていない
暗い照明の
人数に対して少し狭すぎるテーブルの居酒屋で
偶然にも広野さんは美海の横に座った。
急に自分が変な座り方をしてるんじゃないかと気になって
姿勢をよくしてみても
どうやっても不自然にみえるような気がした。
どきどきどきどき。。。
緊張しているのが自分の音でわかった
いつからこんな気持ちになったのかなんて覚えていない
初めて広野さんをみた時の印象は
目が細くてやさしそうな、ひょろりとした大人の男性だった。
会社に入って2年、
彼と同じ課に配属になるまでは存在にも気づかずにいたのに
『広野です。お願いします』
と少しかすれた声であいさつをした彼は
いまでは別の人のように感じる
いつからだったのかな。。
本当に思い出せない
広野さんの声だけが特別に耳に響くようになって
視界の端でいつも追ってしまうようになった
すれ違うとどきどきするなんて
しばらく感じたことなかった。
『本郷さん』
ほとんどが歳下のことを呼び捨てで呼ぶ中で
彼は17コも下の美海のことを、『さん』とつけて諭すようなイントネーションで呼ぶ。
美海は名前を呼ばれることが嬉しいのと同時に
とても子どものようにしか見てもらえていないことを感じて
苛立ちみたいな淋しさを感じることが多かった。
広野さんとは仕事でもほとんど関わることがなく
会社ではいつもあいさつ程度しかしなかった。
広野さんは仕事が出来て
人付き合いが上手く、誰からも慕われていて
上司からも気に入られている人だった。
そんな彼は、人付き合いが大の苦手な美海にとって
とっても尊敬できる大先輩で
だから彼が気になるのも、目で追ってしまうのも
あこがれみたいなものだと思っていたのに。
『本郷さんはいつもどこでサーフィンしてるの?』
40歳になってセーフィンデビューを考えているという広野さんは
ときどきサーフィンの話をしてくる。
がやがやとうるさい店内で、少しだけ顔を近づけて話をする。
『サーフィン、始めましょうよ』と誘ってみた。
一緒に行けたらいいのに....
その後、
広野さんは、幼稚園に通う子どもの話になった。
そして綺麗な奥さんの話。
いつも会話のなかで
必ず家族の話を出す広野さんは、奥さんと娘さんを
すごく大切にしているのが分かった。
はじめは何とも言えない気持ちになることが多かったけど
今となってはだいぶ聞き慣れたし
自分から質問することもたまにある。
お酒が入って、少し緊張もほぐれたころ
仕事が長引いて後から参加する予定になっていたメンバーが
お店に集まってきた。
広野さんは乾杯をしきり直すと
後から合流した同年代と盛り上がる。
同年代どうしの会話は、会社の役員の話
昔いた営業の話やいま始めているプロジェクトの話など
美海には難しくて
ただ話してる人の顔を追いかけて見渡しながら
笑ったり、ときどき顔をしかめたりする広野さんの表情を
ずっと見ていたいと思った。
美海の気持ちは絶対に気づかれちゃいけない
いつもそう思っている。
広野さん自身にも、まわりの人達にも
帰りの電車の中、
頭のなかが広野さんでいっぱいになっていた。
いまの距離感が切なくて、近づきたいと思った。
だけど気づかれちゃいけない。。
なんだか
自分がどうしたいかもわからなくなってきた。
鍵を開けて部屋に入ると
真っ暗だった。
『帰ってきてて欲しかったな』
付き合って2年半になるヒロとは、一緒に暮らして1年が経っている。
軽くシャワーを浴びた後
リビングでテレビを見ようとすると
小さなストラップが置いてあることに気づいた。
美海が1週間前に欲しいと言っていたストラップだと
すぐに分かった。
覚えててくれてたんだ。
彼に顔を合わせる気になれなくて
少し早めにベットに入った。
頭に浮かぶのは、さっき美海に向けられた広野さんの笑顔だった。
やさしくて、でもなんとなく近づけさせてはくれないような
これ以上近づいちゃだめだと言われているような気がした。
もしかして、気づかれているのかも......
そう思ったとき、鍵を開ける音が聞こえた
美海はとっさに眠った振りをした。
まっすぐにベットに向かって歩いてくるのがわかった
背中に彼の体温を感じると
美海の頭の下に腕が伸びてきた。
『愛してるよ』
眠っていると思ったのか、そうじゃないと気づいたのかは分からないけど
美海の髪に顔をうずめて
やさしく抱きしめた後もう一度
愛してると言った。
美海はそのまま起きられなかった。