忘れてはいけない。

思い出したくもないのに。




もう24年。
まだ24年。




*****


当日、夜中の3時頃。
珍しくグズった11ヵ月の娘。
ベビーベッドから抱き上げ、一緒に自分の布団にくるまった。夜中なのにカラスの声が遠くに聞こえた。

ドン!と激しい突き上げに目が覚め、
ゴオォォッと不気味な音に地震?
ガタガタガタッと揺れが来て、咄嗟に娘に覆い被さり布団を頭から被った。
まるでフライパンで炒められてるみたいにポンポン跳ねて、体の下から娘が出ていこうとする。
片手で体を支えながら、もう片方の手で娘を引き戻す。何度も何度も。

キッチンからは、バタンバタン、ガシャンガシャン、と物凄い音が聞こえてくる。
どこか冷静で、この部屋は倒れるものはないし、落ちてくるのは照明器具くらい、それなら布団で大丈夫か。などと考えながらひたすら娘を引き戻す。
ものすごく長く感じた揺れがおさまり、
怖いほど静かになる。

同じく布団で丸まって無事だった夫が
玄関に置いてあった懐中電灯を取りに行き
惨状を目の当たりにする。


その日、震度7の激震地で命を拾いました。




*****



当時、つたい歩きしていた娘のために、タンスや本棚を寝室に片付け、居間をテレビとベビーベッドだけにしてそこに布団を敷いて寝ていました。
テレビはテレビ台から夫の枕に落ちてましたが、丸まってた夫は無事でした。すみに片付けてたローテーブルとファンヒーターはそのまま、ミスト式の加湿器が転倒して絨毯と敷布団がびしょ濡れなことに気づいたのは明るくなってからでした。

たまたま寝る前に枕元に用意していた服に着替え、娘もパジャマの上に洋服と防寒着を着せることができて。居間のカーテンが風に揺れるのを見て、掃き出し窓が「揺れ」で開いていたことを知りました。

停電していて何の情報もなかった。
直後はまだ電話がつながり、両親の無事を確認できました。大阪府在住の姉にもつながり、そこで初めて震度6(←当時、後に震度7)だと知りました。テレビの地震速報、最初は神戸だけがポッカリあいて震度とか出なかったそうです。

夫の実家に無事を知らせ、その後全く電話は繋がらなくなりました。



築浅の2階建てハイツの1階に住んでいて、幸いにも建物自体が崩れなかった。大きなマンションも1階や2階がつぶれたり倒れたり。
近辺の立派なお屋敷は 瓦の重みに耐えきれず倒壊していたり、石垣や土塀も崩れ、多くの方々が下敷きになっていました。

たぶん、あっという間に多くの方々が犠牲になられたんだと思います。
直後のあの静けさ。
思い出すと今も身震いしてしまいます。





あれから。
阪神淡路大震災から。

耐震とか、避難所とか、仮設住宅とか。
ボランティアとか、備蓄とか、
日本の防災や支援がどんどん進んでいます。

まだまだ充分ではないけれど。
毎年いろいろ起こっているけれど。
備えることで、少しでも一人でも助かることがある。

経験者である私ですら、備えが甘くなっていると思います。毎年この日に我が家の備えを見直しています。せめて自分の身は自分で守る。



それでも自然の脅威には勝てないけれど。

成す術もなく、犠牲となられた方々のことを忘れずに。





日々を大切に生きていきたい。

後悔のないように。