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軍備を忌み嫌う人々は、映画「七人の侍」をどう見るのだろうか。
野盗の群れから村を守るため、侍を雇い、村人たちも戦い、女たちは炊き出しをして力を合わせる。自然発生的な軍隊の姿である。
ああいう小さな村であれば、平和主義者を決め込んで自分だけ戦わなかったり、侍たちを嫌ったり、訓練の声をうるさがったりすることは許されないであろう。たとえ侍を雇うために応分の金銭的負担をしていても、である。かような態度の人間はその村で平和を享受する資格はなく、村を追い出されても文句は言えない。
国家が大きくなり、常備軍が創設され、人々は自ら武装して村を守ることから解放された。防衛は専門家集団に任せておけばよく、金銭的負担(税金)さえしていれば村八分になることもない。
共に村を守るという意識は薄れ、紙切れに書いたオマジナイ的文言によって平和が守られているように勘違いし、村の幹部自らが侍の訓練場を「迷惑施設」と呼ぶような世の中となってしまった。
もう一度野盗に襲われなければ、侍の価値を思い出せないというのか。それではあまりにも浅はかである。襲わせないことが侍の役割であり、今こうしている間にも、侍たちは我々村人を守ってくれている。
襲わせないように守ることで、かえって忘れ去られていくというのでは、あまりに悲しいではないか。
さてこう考えてくると、国家が軍備を放棄できる状況が一つだけあることに気が付く。
国家を超越した強力な統治権力が生まれ、支配下の国々を完全に掌握できる精強な軍を持つ場合である。
私費で武装した無頼者やテロリストを即座に叩く。地域間の対立ににらみをきかせて押さえ込む。
こうして安全を保障されれば、国家は安心して軍備を放棄できる。もちろんその場合、「国家」は「州」や「自治領」と名を変えるが。
小学生が夢想するお花畑「世界が一つの国になれば戦争はなくなると思いまーす」という理想社会は、こうして強力な軍隊(地球軍)の下にのみ達成されるであろう。
この場合、「国家間の戦争」というものは、形式上姿を消す。そして「地域間・民族間の内乱」という名前に変わる。
多民族国家の常として、強大な民族が弱小民族を圧迫し、弱小民族は独立を目指して武装蜂起する。
地球軍はこれを反乱と見なし鎮圧する。弱小民族の犠牲の下に、統一は維持される。
内乱は、国家間の戦争よりよほど発生しやすい。統一地球政府の繁栄も長くは続かないから、戦争のない統一平和社会の実態は、じきにグダグダの内乱社会となるだろう。
こう考えれば、国家・軍隊というものは、民族単位に組織するのが一番であるという結論に到達するのである。
国家を超越した強力な統治権力が生まれ、支配下の国々を完全に掌握できる精強な軍を持つ場合である。
私費で武装した無頼者やテロリストを即座に叩く。地域間の対立ににらみをきかせて押さえ込む。
こうして安全を保障されれば、国家は安心して軍備を放棄できる。もちろんその場合、「国家」は「州」や「自治領」と名を変えるが。
小学生が夢想するお花畑「世界が一つの国になれば戦争はなくなると思いまーす」という理想社会は、こうして強力な軍隊(地球軍)の下にのみ達成されるであろう。
この場合、「国家間の戦争」というものは、形式上姿を消す。そして「地域間・民族間の内乱」という名前に変わる。
多民族国家の常として、強大な民族が弱小民族を圧迫し、弱小民族は独立を目指して武装蜂起する。
地球軍はこれを反乱と見なし鎮圧する。弱小民族の犠牲の下に、統一は維持される。
内乱は、国家間の戦争よりよほど発生しやすい。統一地球政府の繁栄も長くは続かないから、戦争のない統一平和社会の実態は、じきにグダグダの内乱社会となるだろう。
こう考えれば、国家・軍隊というものは、民族単位に組織するのが一番であるという結論に到達するのである。