昨日連載が終わった鬼滅の刃。その魅力をあげればキリがないだろう。キャラクターの個性、次々に繰り出される技、独自のファッションセンスなどなど。でも私が取り上げたいのは、訴えかけてくる言葉、これによって私自身が救われた。そのことに注目して、もし道徳の授業で扱うのならどうするかを教えてみた。

第1話

物語はこのセリフから始まる

なんでこんなことになったんだ

時として不幸というものは、思いもよらないところから突然に、毎日同じように続くであろうと思っていた幸せを奪いさる。

主人公の炭治郎は、家族全員を鬼に殺され、唯一生き残った妹ねずこを助けようと雪の山道を妹を背負い下っている。ところが、その妹は鬼に変わってしまい、炭治郎に襲いかかってくる。
とそこへ鬼を追ってやってきた、鬼殺の剣士(冨岡義勇)は鬼のねずこを殺そうとする。そこで炭治郎は何をしたかというと、冨岡義勇に対して土下座をして、どうか妹を殺さないでくれと哀願する。

そこででるのが

生殺与奪の権を他人に握らせるな!

というセリフ

ところでこの生殺与奪の権とは何か
ウィキペディアにはこう書いてある。

国王統治者臣民奴隷に対し、罰則懲戒として裁判などを経ずに死刑を実施する様子や、その権利を掌握している影響力のこと。通常は、権力を掌握したものに同調する側近などがいる。

生殺与奪の権利を掌握するということは、特定の人物職業上もしくは活動上の人生を成功もしくは失敗させる強い影響力を掌握していることを意味する。具体的には、特定の人物を自分の形式的もしくは実質的な支配下に置く事により、その特定の人物の将来の人生に対して強烈な影響力を及ぼす。また、生殺与奪の権利を掌握されるということは、自分自身の将来の人生が、自分自身の自己実現に向けた努力よりもある特定の人物の意図的な意向から強い影響力を受けることを意味する[1]

家族を惨殺された者に対して、なぜこの言葉を言ったのか?
そこを考えさせたい。
ヒントなるのは、そのあと畳み掛けるように炭治郎に言った冨岡義勇のセリフと、冨岡義勇の内心の言葉を対比して考えたい。

冨岡義勇のセリフ
惨めったらしくうずくまるのは止めろ。
こんなことが通用するならお前の家族はころされてない。
奪うか奪われるかの時に主導権を握れない弱者が、妹を治す?
仇を打つ?笑止千万!!
弱者には、何のも選択肢もない。悉く力でねじ伏せられるのみ。

冨岡義勇の内心
泣くな。絶望するな。
そんなのは今することじゃない。
お前が打ちのめされているのはわかっている。
家族を殺され、妹は鬼になり。
つらいだろ。叫び出したいだろう。
わかるよ。
怒れ。
許せないという強く純粋な怒りは、手足を動かすための揺るぎない原動力になる。
脆弱な覚悟では、妹を守ることも治すことも、家族の仇を討つこともできない。

物語の冒頭で家族を殺された主人公に圧倒的な厳しさで臨む剣士。その裏側には、同じ心の傷を抱えているからこその厳しい言葉であることがよくわかる、この物語を貫く核となる非常に重要な場面である。


ここから、それぞれ自分のこととして考えてほしい。
人の人生、生きていて何が起こるかわからない。
今だって、このようなコロナウイルスに翻弄される毎日が来ることを予想してだろうか?
ある日突然奪われる幸せな日々。
悲しみくれることもあるだろう。
ただ悲しみにくれるばかりでなく、やるべきことはないのかと問われているような気がしてならない。
生殺与奪の権を他人に握らせるな

自分の権利は自分で守れとも解釈できる。

ここでどのように感じたか、非常に大きくて深い内容である。非常に大きな課題を投げかける一方で、今心が傷ついている人にとっては非常に厳しいけど優しさのこもった叱咤激励とも受け取れる。あなたはどう受け取りましたか?