古本買い取り新古本・古本販売店に関して。

ぼくはよく本を読みます。

なので、本がたまります。

そして、場所がなくなります。

選ぶときは慎重に選んで、対価が見合うだけの内容が書いてあるものは買いますが、そうでないものは立ち読みの拾い読みで十分だと思っています。

だから、所有している本はとても意味づけの強いものであり、なかなか捨てられるものではありません。

しかし、度を過ぎるのでしぶしぶ売ってしまえということになります。

けれども、本の買い取り業者のもとにいくとエラい安いのです。

なぜ、これほどの内容が書いてあるのにこの値段になるのかなと思うことがしょっちゅうです。

本の値段は装丁に影響されるから内容と値段に相関関係がないことは承知していますが、
かといって古本の場合は純粋に内容を求めてくる方が大勢いるはずです。

そして、古本の値段は引き取った日から換算して単純に値段を決めていくこともしっています。

けどけど、売値と買値のこの開きに納得がいかないのです。

と、もんもんと考えていたとき、思ったのです。

本の買い取りは本を引き取ってもらう人の利便性よりも、店の集客システムの一つとして費用でしかないのではないかと。

たしかに、処分、贈与、買い取りの3パターンの中から選ぶとした、わずかでもいいから値段のついている買い取りを選択する。

もっといえば、プラスのお金が手に入るということ。

だから、買い取りの額なんてのはあまり意味がなさそうなのだ。

それに絡めてお客の来店を促すことが目的だから、そこにお金をかけるのは得策でないということか。

あーっ、わかった。

この手の販売店は本の内容なんてちっとも大事じゃないんだ。

本の価値を知っている人がいない本屋さん。

あれ、なんかオカシイしいけど、それがルールというものなんだね。
かつて、夢破れた人や伴侶を失った者は、自らの身を安全な場所においておくために、俗世と呼ばれる一般社会から、寺社・教会などに身を寄せ、僧侶となった。
あるいは、色町もそうだろうか。

そうやって公権力の及ばない領域として身を寄せる人々が多くいた。

もともとは、公権力が今ほど強大に行き渡らないし国家を形成の弱い昔には散見されたが、いまではその力は弱くなっている。

それをアジールと呼ぶ。

アジールは公権力を強い権力として、自発的小規模な弱い権力構造とみることもできる。

共同体なんかもそうだし、もっとゆるやかなものでは、地方の隣組のようなもの。
社会構成員は国家制度のみで人的ネットワークを構成しているわけでなし、自らの生活範囲において自発的ネットワークを形成している。

ゆえに、個人はフォーマルな社会だけでなく、インフォーマルな社会にも身を寄せているのである。

ただし、このインフォーマルな社会関係は主に社会的自由が基礎となり、市場経済における経済的自由とはトレードオフとなる。
そして、重要なことはどんな対象にも言えるわけだが、一度貨幣価値に換算してしまうと壊れてしまう価値が多くある。

この脆弱性の意味をどう捉えるかにより社会の性質が決まってくるのだが、記号のゲームに堕した社会構造では生きる意味の喪失さえも失いかねず、もう少し気配りがあってもいいのかなと思う。

いま、商店街の多くはシャッター通りと呼ばれ閑散として交流が生まれる要素が減退しているが、祭りの出店のように何も知らぬ人同士が気軽に話かけられる雰囲気の醸成を仕組みとして考えていかなければいけない時代だなと思いました。
これを社会形態として構築できないか考えている。
今回の危機は生産性の問題ではなく、富の偏在とそのリスクの取り方にあった

ポイント

・交換行為を廃し、贈与行為を基本におくことで、クリイティブな社会となる。
・貸しと借りが存在しないので、富の偏在及び固定化しない
・共同参加意識が醸成されるので、各個人が社会あるいは時代を担っている責任感が生まれる。

・インセンティブが持続するかどうか
・クリエイティブな感覚を共有できない人は苦しい社会
・現行制度、とくに所有権及び税制との整合性をとる必要がある。

あと、これにベーシックインカムやスタンプ紙幣などと絡めれば、もう少し現実的な方向に落ち着く。
今の通貨は非常に洗練されたデザインのツールであるがゆえに強力で、その制御が難しい。

バーニング・マン(Burning Man)とは、アメリカ合衆国ネバダ州リノ市から約150km(90マイル)北北東に位置するブラックロック沙漠において、年に一度、8日間に渡って開催される大規模なイベントをいう。干上がった湖であり、堆積した泥が乾きひび割れた「プラーヤ」(Playa)と呼ばれる土地に面積4.5平方km、周囲7.5kmという広大な会場が設営され、その参加者数は2007年には47,366人であったと発表されている。「バーニング・マン」という名称は、会場の中心に設置された巨大な人型の木像「ザ・マン」(The Man)に土曜日の夜、火を放つ(burn) ことに由来する。

このイベントは、例年8月の最終月曜日に始まり、9月の第一月曜日(米国の祝日「Labor Day」)まで続く。期間中、会場は地形的に外部とほぼ遮断されることとなり、そこで構築される独自の実験的な地域社会は、自らを架空の都市「ブラックロック市(Black Rock City, BRC)」であると名乗っている。 BRCの市民たる各参加者は、任意の場所に設営したテントやキャンピングカーを自らの家とし、そこで新しい隣人たちと出会い、友人を作り、交遊し、彼らと助け合いつつ過酷な自然環境下で一週間を生き抜く。そのために必要となる水、食料、衣類、住居は、自らの責任において事前に準備することが求められる。また、貨幣経済や商行為は禁止とされており、見返りを求めない'贈り物'と'親切さ'とで共同体を成立させている。(Give & Give精神) 物々交換や物とサービスの交換も行われてはいるが、「等価」での交換が難しいことから推奨はされない。

BRC市内には、参加者の手で大小多数のアートインスタレーションが設置され、サーカス、レイブパーティ、酒場、ヨガ、ボディペインティング、ウエイトトレーニング、舞踊、瞑想、天体観測、彫刻、音楽演奏、ディスカッション、ワークショップ、演劇、ファイアーダンス、パン焼き教室、トランポリン、大道芸、仮装、集団パフォーマンス、ローラーディスコ、自転車修理/改造、セスナ機での遊覧飛行、など、自由な発想から生まれる多種多様な活動が、会場の至るところで実行されている。一方で、新聞の発行やFM放送局の開設、診療所など、この一時的な共同体の構成員全体に貢献するような活動もまた、ボランティアによって行われている。また「ブラックロック・レンジャー」と呼ばれるグループは、事前に講習を受けた上で、様々なトラブルの解決にあたっている。これらの活動に積極的に参加し、人の輪の中に入っていくこと、あるいはユニークな活動を企画し実行していくことが奨励され、自分では何もせず、物見遊山の観客であろうとする態度は恥ずべきこととされている。(No Spectators)

Wikipedia『バーニングマン』転載
花の香りは桜の匂い。

って、桜って香りがあったのか?

よくお菓子なんかで桜の香りをつけてあるような商品にたまに出会う。

でも、本当のところ桜の香りって本当は人間が勝手にこの香りは桜の香りだって決めつけて刷り込まれたものかもしれない。

以前、桜の製品をつくるとき苦労しました。

桜の色はわかっても桜の匂い。

それがわからないのである。

いくつか香料のサンプルをつくってみるとこれが桜の香りだったような気がするってことになった。

そう、桜の香りは実はつくられた香りかもしれないのだ。

結構ね、そういうものあるような気がする。

薔薇の匂いは人工香料としては2系統あります。

天然の薔薇の芳香物質は何百種類の成分を有し、そのすべてを同定できずただ複雑なのです。

感覚受容の中でもっとも定量的な分析が難しい香り。嗅覚。

記憶も香りの一部であるから余計おもしろいのである。

そういや、花見ってもともとは梅だったんだよね。
本日は休日。
気が楽だ。

むかし、思ったこと。
今に舞い戻る。

同義反復。
同じ慣習の繰り返し。

適者生存の中で、もっとも安定した秩序もたらすものが形作るネットワークのモラル。
それは、べき乗分布により発生した現象の中に、パターン化した定形法則を見出し正規分布によってはめ込もうとする力。

学校での勉強はとにかくロジックを鍛え、合理的であれと教えられる。
そうすれば、最適な答えが正しい答えを導いてくれる。

受験のクイズなんてまさしくそう。
○か×か。
それだけのこと。
通る道筋は一つ。

それが評価の分かれ目。

翻って、資本主義の根幹をなす株式制度。
同じように同列の指標にしたがい、いいか悪いかの判断だけ。
意味プロセスは副次的な意味しかもたない。

それが社会の中に社会の隅々にまで行き渡ることにより、すべては記号の比較になった。

マルクスは人間の権利を守るために労働者の権利を正当化し再生産の概念を打ち立てたが、労働力自身も再生産の対象となり、
その目論見は資本主義の中に消え失せた。

そこで思ったのが合理的であることだけが正しいことじだけじゃない。
すべての人が論理的に考える必要もないし、ただ内に抱える感情を叫びによって表したっていい。
いや、表情や行動だけでもいいのだ。

だって、それのほうが個性的でしょう。
だれも発することのない言葉。
ロジックだけなら、言葉の並べ替え。
行き着くの一つだけ。

なんてつまらないのだ。

頭いいねと言われることがある。
たいていの場合は、単純に褒め言葉として嬉しい。
本当は頭がいいということが分からなくて、ただなんとなくなんだけどね。

そして、ある特殊な場面でときどき言われるのが頭がいいといわれること。
それは、相手が自分へのあてつけとしていうこと。
要するに理解できないからもう少しわかる言葉にして話しなさいということ。

これ、結構頭にくることもあるし、へこむこともある。
何で通じないのか。
話を端折るのが得意なので多少はそういうところあるかもしれないが、大体の話の流れの中でわかってくれればいいのに思う。

でも、本当はわかってる。
所詮は人は自分の世界の中にある言葉話しているから、わからない言葉があって当然だ。
だから、説明のための言葉もあるのだ。

すれ違いあった場合の原因。
理解を促してお互いの距離を縮めるための探索。

方法はいろいろある。
それは合理だけない。

人がただつながって思いを共有するところから言葉が生まれた。
そして、自己の中で再帰的にイメージをつくることで、思い出すことで自己を手に入れた。
また、比較と評価により、対象の分析をすることを覚えた。

そのことが勘違いのもと。
人を識別するのは、みんな同じところと異なるところの同定で、今の状況は比較因子の”標準化”が逆に同じところばかりにして、異なる部分の割合が少なくなり個性が滅する。

だからこそ、論理がぶっとんでいてもその人だということがわかることが世界を理解することの一歩となる。
そんなところだろう。