ネイルの学校では検定対策の授業に入って、

中々思うように出来ず落ち込んでしまったりしょぼん



そして何よりも・・・

ネイルの先生のご家族の方が今病と闘っており、

先生が変わる可能性もあり・・・

先生と昨日は少しの時間お話をしました。


私も母を亡くしていて、壮絶な最後でしたので、

病と闘っている本人はもちろんのこと

介護をするご家族の方の気持ちや苦労が身にしみてわかります。

このような経験はしたくないものですが、

経験したからわかることもあり、違う病だとしても

見守るご家族の大変さや気持ちがわかります。

ですから、こんなあたしですが先生の気持ちが少しでも穏やかになれればと・・・

誰かに話したり、気持ちをある程度さらけ出す方が

いっぱいいっぱいの心にも少しだけ隙間がうまれ

あとから後悔や悲しみが少ないと思ったのです。


というのも・・・(ここから少し長くなりますがすいません)


私の母の死は突然で、がんセンターから自宅へ戻ってきて

わずか2週間でこの世を去りました。

入院中も食事が出来ず、自宅に戻ってからも

食べやすい食事をつくっても全然食べれない日が続き・・・

ただ衰弱していく母を見ていることしかできませんでした・・・

病院は、お盆ともなると医師や看護師が少なくなるため自宅へ戻れそうな方を

帰宅させてしまうのです。

私はどうすればいいのか本当にわかりませんでした。

父は全然頼りにならず・・・兄弟は離れており私しか傍にいられることができませんでした。

救急車で運ぶ前日、お風呂に一緒に入りました。

そんな体力は残っていなかったのですが・・・

お互いもうこれが最後だとわかっていた気します。

小さい頃、母が優しく私の髪を体を洗ってくれたように。

もうすでに骨と皮状態で触れるのが辛かった・・・


そして本当に次の日の夜中に容態が悪くなり、救急車で病院へ

でも病院側の対応は酷く、お盆で担当医師がいないし、看護師も少ないので最初は拒否されました。

私は、電話口でもう怒り爆発で看護師を怒鳴りつけ救急車を呼び搬送してもらいました。

次の日になっても担当医師はきませんでした。


結局、母は救急車で運んだ次の日に亡くなりました。

最後は、もう半狂乱で自分で点滴もとり血の海となったベッドの上で死を迎えた母でした・・・

医師が蘇生するために手をつくしていましたが今更という思いでした。

最後もこれ以上はろっ骨をおってしまうのでと言われて、

もういいです。

と私が答えました。

その間父は、兄弟や親戚に知らせていて病室にはいませんでしたから。

私を産んでくれた母の最後をいくら医師の手を止めて自力ではもう生きていられなかったとしても

私が終わらせることを決定するのは辛く、そしてとても悲しいことでした。


担当の医師が来たのは亡くなってからです。

私はそこでも怒り爆発でした。

でも連絡が言ったのが亡くなってからということを聞き、

ガンセンターの対応に疑問と怒りとたとえようのない感情にさいなまれました。

訴えることも考えましたが、母はもう二度と戻ることはないと思ったのと

そんな気力も体力も私には残っていませんでした。

そして亡くなって四年たちますが、つい最近まで私は自分を責めていまいた。


でも不思議なことが起き・・・


「あなたは十分やってくれたよ。もうお願いだから自分を責めないで。

 お母さんはうれしかったよ。本当にありがとう。」


と母から言われたのです。


亡くなった母は私にそのことを伝えたくて、ある人を通して伝えてきました。

私にはそれが本当に母が言ったことなのかすぐわかりました。

実は、母の死は言えても状況や辛かったことを誰にも言えなかったからです。

その言葉を聞いてから、もう自分を責めるのはやめました。


長くなりましたが、

ずっと後悔していた私だからこそ先生にはしてほしくない。

だから先生と話をして伝えました。


愛する人の最後を看取るのは本当に辛いです。


先生、ご家族の方の痛み苦しみが少しでも癒されますように・・・


こんな状況でしたので

ブログも昨日は更新する気分ではありませんでした。

いつもペタしてくれる方、皆さんのブログを読んでペタをお返しすること遅くなってすいませんでした。