零れる吐息は、まるで劣情に濡れた本能そのもの。
身体の中から溶けてしまいそうで、高見はきゅっと桐島のスーツを握った。
皺になる、だとか、そんな事を気にしていられなかった。
ただ何処かに声が、吐息が漏れてしまわないかが心配だった。
第三者の事などどうでもいい、彼にだ。
彼にだけは、こんなはしたない声など聞かせたくない。それなのに…。

「…っ、ん……んっ」

首筋辺りをくすぐる桐島の黒髪。
まるで高見の声を聞きたいと言わんばかりの愛撫。

(き、りしまさ…っ)

スーツの上からの愛撫がもどかしくて、強請るようにその一房を掴んでみる。途端、顔をあげた桐島と、高見の視線は絡み合う。
言い出せない言葉を瞳にためると、桐島は唇だけで笑った。

「今、名前…呼んだ?」

「っ…」

「俺しか居ないんだから…そんなに我慢しなくていいだろ?」

心を読まれたような、キスの合間に囁かれた言葉に、高見は顔を赤らめる。
桐島の性格をそのまま表現するような優しいキスに、何もかもが暴かれてしまうようで恥ずかしかった。
 隠していられない、と身体が伝える。油断した途端に、濡れた唇から一段と婀娜めいた声が零れていた。

***

まぁ、お遊び程度って事で。
この二人をパロディーでやるなら、社内より桐島さんの家でやらせたくなるのはどうしてだろうね。
玄関先で「ティッシュとハンカチ持ちましたか?あ、ネクタイ歪んでますよ」とかやらせたい。

最近なんか桐島千明で検索かけてくる人が居るんですが…なんなんだろう?
お目当ての人でしたか?
私以外にも桐島さんファンがいるのかな?(笑
 白崎がため息を吐いていた。
いつも笑っているから、何かと冗談なんじゃないかと思っていた。
そう思いたかった。
けれど。

(・・・馬鹿だな)

 自分も、そして白崎も。
無意識に彼の姿を探して、気づけば屋上の入り口まで来ていた。
案の定いつもの指定席で見つけた彼の背中。でも、どうしても声をかける事が出来ずに、入り口で立ち止まってしまう。
距離はあるから気付かれないだろうと、山本は注意深く白崎を観察してみた。
 パックのイチゴミルク。もう26にもなって随分と子供っぽい飲み物だ。
上着をベンチの背もたれにかけ、何度か伸びをしたその背中。

(でももう子供じゃない・・・)

 いつまで自分とこんな事を続けるんだろうか。少し恐ろしくなる。
白崎の強引さが心地よくなってしまいそうで。
もう二度と誰も好きにならないと決めた。もう自分にはそんな資格はない。

(・・・っ)

 まただ。
思い出せば傷口が開く。まるで昨日の事のような痛みだ。
根強く残る自分の罪と罰が、責める。強すぎる自責の念。
 山本は自身を抱きしめるようにして、片手で口元を押さえた。
その視線はさっきから白崎から反らされてはいない。
何故かそらすことが出来なかった。
 訳の分からない感情がこみ上げてくる。胸が痛む。
けれど、これは違う。切り裂かれる罪悪感の痛みじゃない。

(・・・だったらコレは・・・?)

 そっと腹に当てた手のひらを見た。
不健康で不気味だと思う白い手を、白崎は綺麗だとなでてくれた事がある。

(怖いんだ・・・怖いんだよ・・・)

恐怖に震える子供のような自分を、白崎は受け止めてくれる。
彼を思うと、強く自分を締め付けていた束縛が少しだけ緩むような気がした。
 そしてそれが何よりも怖い。
山本は、白崎に気付かれないようにそっとその場を離れた。
何もかもに自信を持てない。悪いクセだと知りながら、過去のトラウマには逆らえない。
 こんな醜さを、純粋な白崎に押し付けるわけにいかないのだから。
「はぁ・・・」

 無意識のため息ほど根の深いものはない。
白崎はパックのジュースをストローで啜りながら、ベンチで空を見上げていた。
 昼休み、いつも通り彼を誘う気持ちにはならず。そうすれば彼から来る事はない。だから必然的に白崎は独りぼっちで考え込んでいた。

(死んだら思い出も美化されるって言うけど・・・強烈過ぎるよ)

 今頃本人に聞かなかった事を、悔やんでも仕方がない。
上司の山吹ははっきりとは言わなかったけれど、山本を好きだという部下と同じ立場として気持ちは分かる。
きっと過去の二人は、同じ気持ちでいたはずだ。
実際は通じ合ってはいなかっただけで。
 山本は、はっきりとさせない事が優しさだと思っている。
けれど、それがとてつもなく拷問に近い行為だという事を知らない。
 微妙な距離。近くもなく、けれど決して手が届かない距離じゃない。
もどかしさの中から生まれる焦燥感。募る感情。
だからと言って、相手を傷つけることは許されることじゃない。
許してはいけない。そこに愛でもなければ。

(やっぱ両思いではあったんだろうな)

 職場恋愛。年の差。部下と上司。
様々な障害だといわれるものが存在していてもなお、手に入れたい感情は消えない。むしろ強くなる一方だ。
負けてはいないと強く思う。
 過去は塗り替えられる。次々と未来に。
それなのに彼はずっとそこに留まっていて、今だ傷口を眺めているかのようだ。
痛々しいにも程がある。見ていられない。
だからこそ、だ。
それが自分の愛だし、過去に打ち勝つ強みだと確信はしていた。

(ただこれ以上、好きのごり押しもしても変わらないんだよなぁ)

 何度彼に好きだと伝えただろう。
この会社に入社して2年のうちに、数え切れない程。
そっけない態度で避けられていたのは数ヶ月だけで、今では1年半程生ぬるい関係が続いてしまっている。
 本格的に嫌われてしまうのならば、このままでいいと思った事もあった。
けれど、それじゃまた過去の繰り返しだ。
彼を変えてやりたい。傲慢だけれど救ってやりたいと思ってしまえれば、もう止まらない。

「はぁ・・・頭いた」

 空は青い。とてつもなく。
比較して落ち込む時期はもう過ぎて、何とかそれが自分を応援する晴天だと心に決めて、白崎はまたため息を吐いた。
 救急車のけたたましいサイレンの音が、頭の奥で響いていた。
山本は朦朧とした意識の中、必死に何かを考えていた。訳の分からない焦燥感で、意識を保たなければいけないと急かされていた。
ズキズキとしたからだの痛みは自分のものなんだろうか。確認したいけれど、指先ひとつ動かせなかった。
全身を覆うけだるさが眠気を誘う。自体はまるきり飲み込めない。
ただ山本は、このまま死んでしまうのだなと思った。



「・・・っ」

 わき腹の痛みに目が覚めた。
目を開けたそこにはただだだっ広い白い空間が広がっていて、一瞬ここが天国なのだと思ってしまうほどだった。
だが、徐々に覚醒していく中で違うと気付く。窓の外には青い空が見え、緑の木々が太陽を遮って、綺麗な木漏れ日を作っていた。
カーテンが靡き、優しい風が頬を撫でる。
ふと脇を見ると、うな垂れている誰かの頭が見えた。

(誰だ・・・?ここは、病院・・・?)

 体を起こしてあたりを見回してみたかったが、痛みが身体を強張らせて身動きが取れなかった。

「っ・・・」

腹に力を入れたせいで、激痛が走る。中途半端に持ち上げた首が一気に枕へ逆戻りしてぼすんと音を立てた。

「目、覚めたのか!?」

「やま、ぶきさん・・・?」

 その音に気付いたのだろう。ベッド脇のパイプ椅子に腰掛けていた人物が立ち上がった。
上司の顔に、山本は無意識に再三身体を起こそうとする。だが、やはり身体は持ち上がらない。
寝巻き姿の身体を締め付ける圧迫感。どうやら包帯を巻かれているようだ。

「今、看護婦呼ぶからな」

「え・・・と」

 自体が飲み込みきれない山本を、心配そうに見つめながら山吹はベッド脇のナースコールを押した。
意識が混濁して、考えが纏まらない。

(何で俺・・・)

 何もかもが靄にかかったように思い出せなかった。
呆然とした顔色の悪い表情が、一瞬にして曇る。山吹が何度も自分に大丈夫か、と聞いて、山本自身こそ自分が無事なのか聞きたい気持ちをぐっと堪えた。
何故か、聞いてはいけないような気がした。

「会社を無断欠勤してたの、覚えてるか?」

 何も言い出そうとせずに、ぼーっとしていた山本に、山吹は少し気まずそうに問いかける。

「・・・・・・」

「電話しても出なくて」

「え、と・・・」

「悪い。まだ話せる状態じゃないか」

ぽり、と申し訳なさそうに頭を掻いてまた椅子に腰掛ける山吹を、山本は感情のない瞳で見つめた。
 自分より山吹の方が事情を理解しているらしい。
混濁から回復したばかりのせいか、または麻酔のせいか。
はっきりとしない倦怠感に、声を出すのも億劫でとても疲れていた。
けれど胸を襲うのは焦燥感。知らなければいけないという義務感。
山本はベッドに手をついて、なんとか半身を起こした。

「何が、あったんですか・・・私に」

「刺されたんだよ」

 張り詰めた空気が、一気に血の気を抜いた。

(誰に)

「相手は・・・その・・・」

山吹の表情に、全てのピントが合った気がした。
心に浮かぶ相手は一人しかいない。

「・・・・・・もう、いいです」

 二人の気まずい空気を遮断するかのように、病室に何人かの看護婦と医師が走りこんでくる。
山本も、山吹も同じような表情を作って黙り込んだ。
起き上がってムリしたせいか、包帯には少しだけ血が滲んでいた。


 山本を慕っていた部下が居た。
その部下が死んだのを聞いたのは、山本が退院したその日の事だった。
自分を刺した後、大きな物音で通報を受けた警官が部屋に飛び込んできた。
二人きりになる事を望んでいた彼だ。
大勢の警官の姿を見て、自分をもう一度刺そうとした。
完全に息の根を止める前に。
 だが、その前に警官が発砲した。
即死だったらしい。



 この痛みは罰だと思う。
あいつにはっきりと別れを告げてやることが出来なかった罪の代償。

「みず、さわ・・・?」

 自信のないような高見の声に、水沢はシーツをきつく握り締めた。
もうこれ以上隠していられない。気付いていないふりも限界。
お互いに同じ気持ちでいる。そう信じていたからこんな生ぬるい関係を続けていられた。
けれど。
少し、揺らぐ。それが致命傷。


「そんなオレって頼りないわけ?」

「水沢」

「誰なんだよ、高見の好きな人って!桐島さんと何話してんだよ!?」

 振り絞るような声に、高見は押し黙る。
はっきりと教えて欲しいのに。昔のようになんでも話して欲しいのに。
いつの間にこんなに距離が出来てしまったのだろう。

(おれがこんなだから・・・?)

 悔しかった。自分は頼りにされていない事が。
肝心な事は話してくれない高見が、余計に分からなくなる。
一気に遠い存在のようになってしまったようで、水沢は寂しかった。
 薄暗い電球に照らされて、見える顔が視線をそらしている。
高見の態度もまた、水沢を苦しめる原因だった。

「何で、なんも教えてくれないの・・・そんな桐島さんがいいのかよ」

「そ、そういう意味じゃない」

 曖昧な言葉。曖昧な態度。

(昔は何でもオレに話してくれたのに・・・)

 優しいと思っていた。けれど優しすぎるのは罪だ。
優柔不断という態度で苦しめられる。
水沢は胸の痛みに顔をゆがめて、高見に掴みかかった。
驚きで顔を上げる高見と至近距離で視線が絡み合う。
互いに情けない顔で、何かを言い出しそうな唇が乾いていた。

「・・・っ?!」

 自棄になっていた、と言える。
こんな風に急かされたことなんてなかった。
急激に近づいた距離。高見は目を見開いて、水沢の震える睫毛を見ていた。

「み、水沢・・・!?」

 それがキスだと気付いたのは、涙で濡れた水沢の目が見えてからだ。
高見は口元を押さえて、驚きを隠せないといった表情を向けた。

「オレ、高見が好きだ」

「・・・っ」

「ずっと、学生ん時から!お前もそうだって思ってた、だから・・・」

 高見の肩を掴む水沢の指が震えている。
緊張のせいだろうか。
水沢がそう取り乱せば取り乱すほど、高見は逆に冷静さを取り戻した。
だが高鳴るのは心臓の音。水沢の声さえ聞き取れない程、響く。
どうしようもないと、時間を取り返せはしないと急かすように。

「高見の馬鹿・・・っ」

「み、ず・・・さわ」

「酷いじゃんか・・・こんなの」

「水沢・・・」

「おれ・・・お前に構ってもらえないのが一番やだよ・・・」

「水沢」

ポロポロとあふれ出す涙が止まらなくて、水沢はシャツで拭った。
高見に借りたものだったけれど、この際気にしてはいられない。
情けない、その一心だ。
 何をやっているんだろう。高見を困らせてしまって。これじゃ本当にただのガキだ。
 今度は高見が指を伸ばす。水沢は無意識にそれを跳ね飛ばした。
けれどもう一度強く掴まれて、驚いたように赤い目を高見に向ける。

「聞けよ、人の話を」

 少し冷静さを取り戻した水沢を見て、高見は安堵のため息を吐いた。
大人ぶろうとしている口調だが、声が微妙に震えている。小さすぎる変化に水沢は気付かない。

「な、んだよ・・・?」

「俺もお前が好きだよ。多分、お前よりも」

「・・・は?」

「俺は水沢が好きだ。それを桐島さんに相談してただけだ」

 はぁとため息と共に吐き出された言葉に、水沢はきょとんとした。
現実と仮想がごちゃごちゃになって、思わず額を押さえる。
オレンジの電球がなければばれている。自分の顔が真っ赤に染まって居る事を。

「お前が好きなのに、お前に相談できるわけないだろ・・・」

 苦笑。
肩の荷を降ろしすっきりとした高見の顔を見て、水沢は両手で顔を隠した。

「嘘」

「嘘じゃない」

 高見もまた同じように前髪をかきあげ、髪の毛をくしゃくしゃにする。
身近な人にだけに見せる、困った時の彼のくせ。
指の隙間からそれを見て、水沢は一気に高見から離れた。
勢いで告白してしまったけれど、こんな展開は想像していなかったから。

「嘘だよ」

「水沢」

「だって」

「もういい」

 高見は後ずさりする水沢の腕を引いた。
まだテクニックのない唇が、それでも柔らかく重なる。
その瞬間に水沢は小さく呟いた。

「・・・・嘘つき」

拗ねるように。

(最初から両想いだったんだ・・・)

でも至極幸せそうな微笑を浮かべて。


END