発達障害家族の記録

発達障害家族の記録

発達障害について、当事者として、
当事者の家族の立場としての両面から書いてます。

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発達障害ばかりの家族のこれまでの困りごとを
発達障碍特性、個人の性格、環境の3つの観点から発達障碍の当事者の立場、家族の立場の両方の目線で書いております。


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家族のことを書いた記事は、後程アメ限記事にすることがあります。
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注意この記事はセンシティブな内容含みます。

 

考えていることを口に出したい性分で、思ったままを書いてるので、読む人に配慮してません(ご注意を)

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっと前に読んだこちらの本から考えさせられたこと。

 

 

 

 

2016年に相模原市の障碍者施設津久井やまゆり園で19人もの入所者を殺害した事件の加害者、植松被告と面会による取材の他、やまゆり園の関係者の意見や精神科医の見解なども書かれている。

 

 

事件当時のニュース記事からして、狂気じみた犯人像だったり、元職場であるやまゆり園への恨みなどを想像していたけど、この本の植松被告との面会での対話の章を読むとそれとは少し違っていた。

 

筆者は存外礼儀正しく、まともな受け答えが出来る相手だったらしいが、加害者の事件後の精神鑑定の結果、自己愛性パーソナリティ障害(NPD)という診断名からして、さもありなん・・・。

面会に来た取材者の前では外面モードが入ってただけなのでは?

 

 

植松被告の発言を全部ありのまま掲載したわけではないかもしれないけど、加害者の主張を要約するとこうだった。

 

意思の疎通の取れない重度障害者は『心失者』と呼び、彼らを生かしておくのは、医療や製薬会社のエゴでしかなく、安楽死させるべき、という思想。その考えをきちんと説明出来たら半分の人は共感するはずだ、という主張。

※社会に不要とされるのは重度障碍者のみならず、心がない犯罪者も同様なのだとか。(植松被告自身もそこに含まれている意識があるかどうかは不明・・・・)

 

 被害者遺族には申し訳ない気持ちはあるが、被害者に対しては安楽死に出来なかったことは悔やんでいるが、犯行については依然として間違ってなかったと主張する。
 

 

NPDを父に持つ私としては、植松被告の考え方を読むと、『なるほど、NPDだわ・・・』としか言いようがない。

 

 

意思の疎通の取れない重度の障害者を対象にしたことに対して、もっともらしい理屈をつけてるけど、なんだか無理やり取って付けた感満載の薄っぺらい印象しかない。

 

仮に、食糧難で国民全体が飢えているって状況ならば、そういう考えをする人が出てくるのは分からなくもないけど、そんな余裕のない時代じゃあるまいし、今の時代は、犬猫のような意思疎通の取れない動物ですら、虐待すれば立派な犯罪なのだ。

まして同じ種別の人間が良いわけがない。

 

 

・ 自分を良く見せる手っ取り早い手段として、弱者(または自分と同類の人間)を攻撃対象にする。

 

・ 相手を攻撃する大義名分として、もっともらしい理屈をくっつけて周りも巻き込もうとする。

 

といった、NPDの特徴そのものではないか。

 

 

植松被告の考え方がヒトラーと同じだという指摘に対しては、

ヒトラーは意思疎通の取れるユダヤ人を対象にしたが、自分は意思疎通の取れない重度の障害者を対象なので、自分はヒトラーとは違うとハッキリと否定しているようだけど・・・・

 

 

・・・・これどう考えても同じだろう。

時代背景が違うから攻撃対象が違っただけで、根っこは同じだと思う。

 

怖いのは、NPDのこういったこじつけ理屈に同調してしまう人が必ず存在するってこと。

 

 

今の時代に特定の民族や人種を対象にしてしまうと、自分への批判が殺到するだろうけど、(率直な表現で申し訳ないけど)重度障害者のことは、口には出さなくても、皆心の片隅に『いらない存在だ』と思っているだろうと・・・・

 

だから、世間から反論されるリスクを抑えて自分の主張が通るはずと自身満々に見積もっているから、植松被告は、自分の主張は半分以上の人間は共感するはずだと言っているのだと思う。

 

 

実際ネット上では植松被告に共感する人もいるようなので、否定しきれないのだろうけど。

 

 

 

命の線引きはコロコロ変わる・・・

 

重度障碍者が対象でなくても、命の線引きって時代によってコロコロ変わってきたと思う。分かりやすいのが戦争だったりするわけだけど。

 

 

不適切発言になるけど、例えば江戸時代の貧しい農村だったら、植松被告の考え方は『正常』の範疇だったんじゃないだろうか。

 

今の時代も嬰児の遺棄がたまにニュースになるけど、障碍がなくても、貧しい農村部では口減らしに生まれたばかりの赤子を間引く習慣があったとか。

 

 

命の線引きの対象って、時代や状況によって変わってきたので、もし遠い未来に日本が極貧国家に成り下がったら、もしかしたら植松被告は英雄として引き合いに出される可能性もあると思う。

そう考えると、怖いなって思う。

 

 

未だに、SNS上で津久井やまゆり園の事件を紹介したものに対して、加害者の考え方に共感するコメントを目にする。

共感とまでは行かなくても、重度の障害者のケアの過酷さを想像して加害者の考えを全否定は出来ない・・・といったコメントが多数みられた。

 

重度の障害者の家族の立場を想像してみてそう考える人もいるんだろうし、実際に障碍者の家族の中には被害者がいなくなってホッとしている人もいるとかいないとか・・・。

 

書籍の中で精神科医の見解として『植松被告は病気ではない、けれど正常とも言えない』と書かれていたが、アレだけの事件を起こすまではいかなくとも、誰もが、少なからず植松被告と同じ考えを持ってしまうのは普通なのかもしれない・・・。

 

でもそれは”重度の障害者だから”、なのだろうか。

 

例えば、ごく普通の子供を持ったとしても、2,3歳まではの子育ての大変さから、産んだことを後悔することは普通にあると思う。虐待で子供を4なせてしまう親もいる。

 

重度の障害者の家族にとっては、その状況がずっと続くわけだから、 猶更大変な状況に追い詰められれば、”産まなきゃ良かった”とか、”普通の子なら良かった”とか、思ってしまうだろうけど

それが全てではないだろう・・・

 

人間らしい情があるから、苦悩もするのだろうし、その情が命の線引きの最終ラインになりうると私は思う。

 

 

子育てが辛いとか、障碍者の家族は大変っていうのは、それはその言葉通りで間違いないんだけど、人間らしい情もあるから苦悩するわけだし、そもそもが生活の負担の大きさが問題なのでは?

 

だとすれば、〇す発想のもっともっと前段階で、考えるべきことはあると思う。

 

貧すれば鈍するで、本当に生活の余裕がなくなれば、その人間らしい情も薄くなるのかもしれない。・・・・そういう状況になって怖いのは、植松氏の主張のように、心の片隅に閉じ込めてあるネガティブな感情を刺激されたら、あっさり洗脳できてしまう、ということ。

 

 

NPD者は、弁が立ち、社交的で魅力的な自分物に見えるだけに、弱っている状況の時に雄弁に主張されたら、まるで救世主が現れたかのように感じてしまうかも・・・・。

 

怖いなって思う。