「利他」をもって「正義」を語るような風潮
「利他」には、独特の「うさんくささ」がつきまとう
利他的な振る舞いをすることで「善い人」というセルフイメージを獲得しようとする利己的行為
次第に「あげる人」「もらう人」という上下関係が構築され、ここに支配-被支配の関係が自ずとできあがる
目の間に差し出されたものが「合理的利己主義である利他」であったなら、なかなか純粋には受け取れない
「心底、利他」と感じられて初めて、利他の循環ははじまっていく。そうでないものは、声だったり瞳だったり、行為の中にどうしたって滲み出る。結果、一方的な「提供」で終わってしまえばそこに循環は生まれない。お返しは、直接相手に返るとは限らないけれど、巡るために必要なのは、たとえそれが気まぐれであっても、「心底」から生まれたギフトであることのように思う。
通常、利他的行為の源泉は共感にあると言われています。頑張っているからなんとか助けてあげたい。いい人なのに、うまくいっていないから応援したい。そんな気持ちが、援助や寄付といった「何かをしてあげたい」動機付けになっています。窮地に陥った人を助けるにおいては意味のあることでしょう。一方で、例えば重い障害がある人たちや、日常的に他者の援助やケアが必要となる人はどんな思いをするでしょう。恐らく、こう思うはずです。「共感されるような人間でなければ、助けてもらえないのか」と。
<『思いがけず利他』中島岳志著 より>
共感は、それ自体に無理があるんじゃないか 相手が何を思ってどう感じているか、本当のところは誰にもわからない。
相手が「何をしてもらったら嬉しいか」を分かっているという前提自体に不可能性を感じる 共感可能性をベースに意図する利他が、「無理さ」や押し付けを含み得る
「Gift」という単語の語源を辿ると、ゲルマン語の「贈り物」と「毒」という両方の意味があるという。ギフトは時に、自分の支配欲をもって、相手を毒すことにもなり兼ねないのだ。
だから、「わからなさ」ベースがいいんじゃないだろうか。気まぐれな私の心に「そうしてみようか」と、そんな気持ちが起こったからやってみたよと、それぐらいでちょうどいいんじゃないかと思っている
