香田誉士史氏が駒大苫小牧高校野球部の監督になったのは1995年、23才のときだ。
それまで佐賀の地で野球に携わっていた彼は、半年しかグラウンドで練習ができない北海道の厳しさを痛感する。しかも着任当時の苫小牧野球部は道内でも弱小の部類。とても甲子園など目指せる状態ではなかったようだ。部員とは毎日ケンカばかり、地元の友人らに電話をかけては、散々愚痴って涙をこぼす日も少なくなかったという。23才の青年。仕方のないことだ。
そんな彼の前に1人の男が現れる。我喜屋優(がきやまさる)氏だ。香田よりちょうど20才年上の我喜屋は、道内にある昭和製紙という名門社会人チームで、選手・指導者として長年チームを引っ張ってきた男である。言ってみれば雪国野球のスペシャリスト。
知人の紹介で出会った香田と我喜屋。この日を境に香田の野球観は一変する。我喜屋はそうとうに厳しい言葉で、次々と香田の野球にダメを出した。「雪だから外でできない。ケガをするからできない。」は全て言い訳、と我喜屋は一刀両断する。
香田にとってはまず、選手を鍛えることよりチームを強くすることより、とにかく我喜屋を納得させることが命題となった。
ブルドーザを安く買い上げて雪をならし、真冬にもノックを打った。ひと冬で履きつぶせとばかりに、長靴をスパイクに履き替えさせた。息も凍りつく氷点下でも、ピッチングをやらせた。もちろんケガを心配する声はあった。しかし意外なことに、選手は大きな故障を負うことなく春を迎えられた。「雪上・氷上での練習は想像以上に選手のバランス能力をアップさせた」と香田は分析する。
何度目かの冬を越え、チームは確実に強くなっていった。我喜屋からのダメ出しも徐々に減っていった。父兄も積極的に協力してくれるようになった。
最後に香田がたどりついた境地。「雪国だからできないことなんて、結局何ひとつなかった。『無理だ』という言葉を捨てたら、あれもできる、これもできる。」
周知の通り'04、'05と駒大苫小牧高校は夏の甲子園を連続制覇。'06も決勝にまで進出した。他県の半分しか練習ができないから…、でおなじみの北海道野球の常識をぶち壊した。
「逆境を順境に変える。そのためにはヘソを曲げなくちゃ。真っ当な人間でいようと思ったら何も変えられない。(我喜野優)」
ちなみに、雪国野球のスペシャリスト・我喜野は現在、沖縄の興南高校で野球部の監督をしている。
おもしろいもんだ。