「行雲流水」というこのブログのタイトルに選んだ言葉は大槻ケンヂの本の一節にあって、昔からお気に入りのフレーズでした。

ボクは青春時代、「自我同一性」とか「セルフアイデンティティーの確立」とか「エゴとエス」とか「自と他の違い」とか「自己否定と向上心」とか、そーゆーテーマでよく悩んでました。ユングやフロイトや加藤諦三の本を読みあさったり、交流分析からエゴグラムを作ったりして過ごしたものです。宗教の存在意義を実感したのもこの頃だったはずです。

当時、母や姉とはよくそんなテーマの話をしました。話したところで解答なんかは出たり出なかったりするワケですけど、少なくともボクには「うんうん」と話を聞いてくれる母や姉がいたワケです。どんな有名な心理学者の本を読むより、母や姉と話す時間こそが重要であり貴重だったのかも知れません。

心理学の本って、読めば確かに「へぇー」と思います。でも結局そこに科学性があるのかないのかよくわからなくて、読めば読むほど宗教学との境目が不明瞭になってっちゃう気がしてました。

読みが浅いと言われればそれまでですが、けどそんなボクが悩みの末に出会った言葉が「行雲流水」でした。

「強くなりたい」「芯を持ちたい」「揺るがないでいたい」。そうやっていつもいつも、どこまでもどこまでも「自分」を追いかけていた気がします。もう「自分」ばっかり。自意識のカタマリです。
自分など空を行く雲の一部のようなものだ、川を流れる水のなかの一滴に過ぎないのだ。この言葉に出会って以来、そう思うようになりました。

美和明宏は言いました。
「ひとは自分のためには強くなれない。でも誰かのためならいくらでも強くなれる。」
自分から離れてみることが、自分を知る第一歩だったように思います。