世界の多くの国では、クリスチャンと名乗るだけでも少数派の一員となりますが、その中でも毎週の安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)を守るクリスチャンは、さらに少数派となります。
しかし、聖書的なキリスト教は決して多数派ではありません。キリストはご自身の教会を「小さな群れ」と呼びました(ルカ12:32)。
そしてキリストに従う者は「神の戒めを守り、イエスキリストのあかしをする」(黙示録12:17)のです。
十戒は廃されたのか?
多くの教会は、安息日はもはや現代のクリスチャンには適用されない、つまり廃止されたと信じています。彼らは、十戒のほとんどに異論は持っていません。例えば、殺人や盗みは間違っていると誰もが信じています。
しかし、プロテスタントの日曜礼拝を行う教会のほとんどは、安息日、或いは安息日を含む十戒は廃されたと考えているのです。
本当に十戒は廃されたのでしょうか?
イエス様はこのように言われました。
「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。」(マタイ5:17-19)
「天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。」と、イエス様は言われていますが、今、私がこの記事を書いている時点では、どう見ても天地は滅びてはいません。従って、律法は廃止されていないのです。
さらにイエス様は、「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」(マタイ19:17)と言っておりますが、ここで言われている戒めとは十戒を指している事は18-19節で確認できます。
「彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。」(マタイ19:18-19)
使徒ヨハネは「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」(1ヨハネ5:3)と言い、
使徒パウロは、「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。 」(ローマ7:12)と書いています。
パウロはまた、「割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである。」(1コリント7:19)と書いています。
新しい戒めとは
さて、多くの人はイエス様は十戒に取って代わる「新しい戒め」を与えたので、現代に生きている私たちは安息日を守る必要は無くなったのではないのか?という疑問を持っている事と思いますが、それについて説明していきます。
イエス様はこのように言われました。
「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。(ヨハネ13:34-35)
確かにイエス様は、「新しい戒め」を与えると言われていますね。
ですが、「互いに愛し合う事が新しい戒めなのだから、安息日については守る必要が無くなった!愛を示せばそれだけで良いのだ!」と考えてはいけません。
実は使徒ヨハネもこの「新しい戒め」について話していますが、彼はそれが本当は新しいものではないと言っています。(1ヨハネ2:7-10)
そして第二の手紙でヨハネはこのように要約しているのです。
「新しい戒めを書くわけではなく、初めから持っていた戒めなのであるが、わたしたちは、みんな互に愛し合おうではないか。」(2ヨハネ1:5)
「互いに愛し合いなさい」、つまり「隣人を愛せよ」という命令は、モーセの律法にまで溯ります。(レビ記19:18)
キリストはこれに「わたしがあなたがたを愛したように」と付け加え、これを拡大したのです。キリストは私たちのために命を捨てることによって、その偉大な愛を示されました。
イエス様の完璧な愛の模範、それが新しい基準であり、新しい戒めなのです。
イエス様は、「新しい戒め」を与えたので、「愛」を示す事が、十戒に取って代わり、安息日は守る必要が無くなったのだと説明する人がいますが、これらの人達は明らかに、十戒が愛の律法である事を理解していません。
イエス様は「愛」は2つの大きな戒め、(すなわち神への愛と隣人への愛)で表すことが出来ると説明されたのです。(マタイ22:36-39)
私たちが神を愛する方法は、安息日を含む十戒の最初の四つの戒めによって説明されています。(出エジプト20:1-11)
隣人を愛する方法は、最後の六つの戒めによって説明されているです。(12-17節)
つまりは、神への愛、そして隣人への愛を示すには、十戒を守る必要があるのです。十戒を守らずして、神、そして隣人への愛をどうやって示せるというのでしょうか?
イエス様は、十戒を廃止したのではなく、十戒が神を愛する事と隣人を愛する事という二つの大きな掟の下にまとめられているという事を教えられたのです。
キリストの歩みに従う
クリスチャンは、「キリストの歩みに従う」べきなのです。(1ペテロ2:21-22)
イエス様は何をされたのでしょうか?安息日を守っておられたのです。(ルカ4:16,31)
そしてそれは、使徒たちと新約教会の習慣でもあり続けました。(使徒13:14,42,44; 17:2; 18:4)
神は安息日を創られ、それを聖なる日とされました。誰がそれを変える事が出来るのでしょうか?神のみです。
聖書には、神が安息と礼拝の日を変えたという記述はありません。
未来の安息日
イエス様は、安息日は人のためにある、つまりユダヤ人だけでなく全人類の為にあるのだと言われました。(マルコ2:27)
イザヤ書56章は、安息日が神にとっていかに重要であるか、また安息日がいかに皆の為のものであるかを示している。
神は、「安息日を守って汚さず、悪しきことをしない人」(イザヤ56:2)に祝福を与えてくれますが、これにはあらゆる国の人が含まれます。
「また主に連なり、主に仕え、
主の名を愛し、そのしもべとなり、
すべて安息日を守って、これを汚さず、
わが契約を堅く守る異邦人は――
わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、
わが祈の家のうちで楽しませる、
彼らの燔祭と犠牲とは、
わが祭壇の上に受けいれられる。
わが家はすべての民の
祈の家ととなえられるからである」。」(イザヤ56:6-7)
そしてイザヤ書66章23節にも、すべての人が神の聖なる安息日を守る未来の時が描かれているのです。
新月ごと、安息日ごとに
すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと
主は言われる。(イザヤ66:23)
イエス様や使徒たちが安息日を守り、未来の時には全ての人が安息日を守るようになると聖書には書かれているのです。
ですから、今のこの時代に、安息日が適用されていないという事をなぜ言えるのでしょうか?
私たちが真剣に考えるべき事
有名な山上の垂訓の一部であるマタイ7章でキリストが言われた事に注目して下さい。
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイ7:21)
イエス・キリストが何を言っているのか考えてみてください。その意味は強力です。イエス・キリストに仕えると公言している人、つまりクリスチャンと自称している人すべてが神の国に入れるわけではないと言っているのです。
イエスの弟子であると主張する人に期待されることは何でしょうか。父なる神様の御心を信じ、従うことです。イエス様は、御父の言葉を忠実に教えたことを、別の箇所で明らかにされました(ヨハネ14:10、24)。
偽りのキリスト教と真のキリスト教
今日、世界で最も人気のある宗教はキリスト教であり、世界人口のほぼ3分の1(約24億人)がイエス・キリストに従うと公言しています。
世界最大の宗教でありながら、間違いなく最も分断された宗教です。キリスト教の多くの教団や宗派は、様々な教義的信念を持っています。しかし、ほとんどの場合、彼らはすべて同じ本、つまり聖書に基づいた教義を主張している。そして、彼らは皆、イエス・キリストを崇拝し、信じていると主張している。
ここで考えなければなりません。このように多様な教えを持ち、多様な礼拝習慣を持つ教会が、すべて同じ源から来たものであることは、どうして可能なのでしょうか。イエス・キリストは本当にこれらすべての教会の源であり指導者なのだろうか?
要するに答えはノーです。
多様な考えや教えを持つキリスト教のすべての宗派や教団が真理を教え、実践しているということは不可能なのです。
私たちは、聖書にあるイエス・キリストの本来の教えに基づき、偽りのキリスト教と本物のキリスト教を見分けることができるようにならなければなりません。
キリストは「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。」(マタイ7:15)
と明確に警告されました。
私たちを意図的に欺こうとする者もいますが、多くの人は間違いなく誠実です。(マタイ7:22)
聖書と矛盾するような教えが広まり、説教者達が心から欺かれる事があり得るのです。
ですから私たちは聖書をよく調べ、その教えが真理であるのかを判断しなければなりません。
偽キリスト教は、広い道(マタイ7:13)、つまり簡単で人気のある宗教を提供します。
キリストは、簡単で人気のある宗教ではなく、ご自分の道は「狭く細い」、そしてそれを見出す者は「わずか」であると教えられました(マタイ7:14)。
キリストは、ご自分の真の信奉者を「小さな群れ」(ルカ12:32)と呼び、聖書全体の教え(マタイ4:4)、特に神の戒めを守り真の神を礼拝する比較的小さな集団としたのです(マタイ19:17、ヨハネ14:21、第一ヨハネ5:3、ヨハネの黙示録12:17、14:12)。
重要な事は、自分自身で聖書を調べる事です。ですから、この記事に書かれている事も鵜吞みにするのではなく、ぜひご自身で聖書を調べて確認して下さい。
そしてもし、今現在毎週どこかの教会に通っているなら、そこの教えが聖書にあるイエス・キリストの本来の教えに基づいているのか、ご自身でよく聖書を調べるようにするべきです。
安息日を喜びにする
安息日を守ったことがない人は、安息日を守るという事に疑いの目を向けるかもしれません。
しかし、聖書は、安息日を聖なるものとすることを覚えることが、嘘をつかない、盗みをしない、姦淫をしない、殺人をしないことと同じくらい重要であると示している。十戒は全てがセットになっているのです(ヤコブ2:10-11)!
命令であることに加え、神は私たちの生活に役立つように安息日を創られました(創世記2:1-3、マルコ2:27)。
安息日を守ることを決めるのは大変なことで、信仰、約束、理解、計画が必要です。
しかし、この日が特別な祝福であることを認識し、感謝するようになると、「安息日のために毎週丸一日、人生の時間を割くことができるだろうか」という疑問が、「安息日という神の素晴らしい贈り物を、なぜ毎週守らないのだろう?」と、全く別の疑問に変わるかもしれません。
安息日を祝うのが初めての人にとって、金曜日の日没から土曜日の日没まで忙しい日常を中断するということは、怖くて非現実的なことに思えるかもしれません。さらに、普段の生活から切り離された一日は、喜びがなく、退屈で苦痛に思えるかもしれません。しかし、それは正反対です。
イザヤ書をご覧ください。
「もし安息日にあなたの足をとどめ、
わが聖日にあなたの楽しみをなさず、
安息日を喜びの日と呼び、
主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、
これを尊んで、おのが道を行わず、
おのが楽しみを求めず、
むなしい言葉を語らないならば、
その時あなたは主によって喜びを得、
わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、
あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、
あなたを養う」。
これは主の口から語られたものである。
」(イザヤ58:13-14)
イザヤは、喜びのない安息日を耐え忍べと言っているのではなく、個人の目的から離れろということを言っているのです。
肉体的なことを追求するのではなく、神の霊的なことを追求しなさいということなのです。そのことによって、私たちは神のものが喜びに満ちていることを知るのです。
今では私にとって安息日は毎週の楽しみであり、自分の人生において、なくてはならない日となってます。
今回はここまでとなりますが、今後も安息日についての記事を書いていきます。