聖書は復活について何を語っているのか。どのような意味を示しているのか。聖書が語っている復活について、何度かに分けて記載していきたいと思います。
是非、実際に聖書を確認しながらお読みください。
復活という言葉は、死から生き返る事を意味していますが、パウロは、1コリント15:14-18で、キリストの復活が永遠の命という希望を持つ為には不可欠であると言っています。
又パウロは、復活には順序があるという事を説明しています。
「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。最後の敵として滅ぼされるのが、死である。」(1コリント15:22-26)
パウロが、復活について「各自はそれぞれの順序に従わねばならない」と言っている箇所に注目して下さい。
これはつまり、一度だけではなく、複数の復活がある事を意味しています。
「復活は複数ある」という事を頭に入れたうえで、黙示録20章を見てみましょう。この章には、キリストが地上に戻ってきた後の主な出来事の順序が記されています。
サタンが縛られ、千年の間人々を惑わすことが出来なくなった後の事、ヨハネはこのように言っています。
「また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。」(黙示録20:4-6)
今回ここで注目すべき点は、「第一の復活」と言っている部分です。復活が一度しかないのであれば、「第一の」という言葉はあまりにも不自然です。ですから、明らかに他にも復活がある筈なのです。
そして黙示録20:5を確認すると
「(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)」と、千年後に別の復活があるという事に言及しています。
ここに書かれている「それ以外の死人」とは、罪人として死んだ人々の事です。改心して死んだ人々は既に(第一の復活で)復活し、キリストと共に支配しているのです。
第一の復活とは別の復活、それが「第二の復活」です。
これから第二の復活について記載していきますが、注意しなければならない点は、「第二の復活=セカンドチャンス」ではないという事です。第二の復活とセカンドチャンスとでは意味が全く違います。
そして第二の復活は、裁きのための復活であり、救い、或いは永遠の命へ直結する復活ではありません。又、霊の体によって復活する第一の復活(1コリント15:44)とは異なり、第二の復活は肉の体によって復活します。
黙示録20:11-12には、死者が「大きな白い御座」の前に立っていると書かれています。これは、第二の復活でよみがえった人々の裁きについて預言されている箇所です。
「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。 」(黙示録20:11-12)
“ここで「死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。」とありますが、これは彼らが死ぬ前に行ったしわざ(行い)を意味するものではありません。私たちは彼らが罪人として死んだ事を知っています。
ですからこれは明らかに、第二の復活の全ての人々に対し、以前には理解できなかったこと、つまり真理を学ぶための期間が与えられる事を示しています。そしてその期間に学んだ事をどのように実行したかによって裁かれるのです。
実際にエゼキエル書37章には、復活とその後の生活について書かれています。是非ご自身で確認してみて下さい。“
キリストは、この裁きの日を、以下のように説明しています。
「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。 しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。
(マタイ11:21-24)
「ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。」
(マタイ12:41-42)
イエス・キリストは、異なる国や時代の人々が共にこの裁きの場に立つと説明しています。
そして注目すべきは、「ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう」「ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」と言っている箇所です。
「より耐えやすい」とはどのような意味なのでしょうか。
もし、この裁きの時が単に判決の時で、第二の復活でよみがえった全ての人が罪人として永遠の死(ローマ6:23)の宣告を受けるのであれば、「より耐えやすい」とは意味不明です。
実際、クリスチャンは既に裁きを受けています(1ペテロ4:17)が、それはプロセスであり、良い結果をもたらす可能性があります。そしてすべての人間は裁かれるのです。(へブル9:27)
ですから、裁かれるとは、必ずしも非難される事を意味するものではありません。
「第二の復活」について、ここから更に聖書的根拠を記載していきますので、ご自身で実際に聖書を確認しながら読み進めて下さい。
- 私たちの神は正義と憐みの神です。(ミカ書6:8,マタイ23:23)
- 私たちの神は、すべての人が救われて真理を悟るに至ることを望んでおられます。(1テモテ2:4,2ペテロ3:9)
- そしてわたしたちが救われる名はただ一つ、イエス・キリストの名だけ(使徒4:12)です。
しかし何十億、或いはそれ以上の、神の真理を知らずに生き、死んでいった人々は全員、永遠の死の宣告を受けなければならないのでしょうか。イエス・キリストという名前すら知らずに死んでいった人々は問答無用で永遠の死の宣告を受けなくてはならないのでしょうか。
そうではありません。エゼキエル書37章を確認してみて下さい。
神が死者の枯れた骨を復活させ、肉体の命を吹き込まれるといった第二の復活に関する預言が書かれているのです。
これまで救いの機会を受ける事が出来なかった人々にも、いずれ神はご自分の霊を与えて下さいます。つまり救いを受けるチャンスを与えて下さるのです。
「わたしがわが霊を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させる時、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったことを悟ると、主は言われる」(エゼキエル37:14)
これはセカンドチャンスではなく、(第二の復活で)復活する前の人生において、救いの機会を受ける事が出来なかった人々の為の初めてのチャンスなのです。
さて、第一の復活、第二の復活がある事は分かりました。しかし聖書に記されている復活はこれ以外にはないのでしょうか?
マタイ5:28-29でイエス様は、
「このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。」と、全ての人が復活すると言っています。
聖人が第一の復活でよみがえり、救いの機会を得られなかった人達が第二の復活でよみがえるのなら、「悪をおこなった人々」はそれ以外の復活、つまり第三の復活でよみがえるのです。
黙示録20章の終わりには、悔い改めない邪悪な者たちの三度目の復活が描かれています。
「それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」
この第三の復活の中にいる人々は、無知で罪を犯した者やつまづいた者ではなく、自ら進んで意識的にイエス・キリストを拒否し、自分の道を歩む事を選んだ者たちです。これには、積極的に神の道を選ぶことを怠り、救いの機会を与えて頂いたにも関わらず、その救いの機会を真剣に受け止めなかった者も含まれます。
「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。 」(へブル10:26-27)
神を拒否する道を選んだ人(2ペテロ2:20-22)の行きつく先は第二の死です。
この第二の死は、永遠の拷問ではなく、慈悲深い死であり、そこからの復活はもうありません。神は、罪人は焼き尽くされて灰のようになると言われます。(マラキ4:1-3)
第二の死は地獄での永遠の拷問ではなく「滅び」であり、完全な滅亡です(2ペテロ3:7)
今回の記事はここまでですが、復活に関してはまた別記事で記載していきます。