ポール・ゴーギャン2 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

ポール・ゴーギャン2

 

就職・結婚

ポールは地元の学校に通った後、ラ・シャペル=サン=メマン(英語版)の格式あるカトリック系寄宿学校に3年間通った[2]。1861年、13歳の時、パリの海軍予備校に入学しようとするが、試験に失敗しオルレアンに戻ってリセ・ジャンヌ・ダルクを修了した。そして、商船の水先人見習いとなり世界中の海を巡る。1867年7月7日、母が亡くなったが、ポールは数か月後に姉からの知らせをインドで受け取るまで知らなかった[3][4]。その後、1868年に兵役でフランス海軍に入隊し、1870年まで2年間勤めた[5]。1871年、23歳の時パリに戻ると、母の富裕な交際相手ギュスターヴ・アローザの口利きにより、パリ証券取引所での職を得、株式仲買人として働くようになった。その後11年間にわたり実業家として成功し、1879年には株式仲買人として3万フランの年収を得るとともに、絵画取引でも同程度の収入を得ていた[6][7]。

1873年、ゴーギャンは、デンマーク人女性メット=ソフィー・ガッド(1850年-1920年)と結婚した。2人の間には、エミール(1874年-1955年)、アリーヌ(1877年-97年)、クローヴィス(1879年-1900年)、ジャン・ルネ(1881年-1961年)、ポール・ロロン(1883年-1961年)の5人の子供が生まれた。

 

絵の修業

株式仲買人としての仕事を始めた1873年頃から、ゴーギャンは、余暇に絵を描くようになった。彼が住むパリ9区には、印象派の画家たちが集まるカフェも多く、ゴーギャンは、画廊を訪れたり、新興の画家たちの作品を購入したりしていた。カミーユ・ピサロと知り合い、日曜日にはピサロの家を訪れて庭で一緒に絵を描いたりしていた[8]。ピサロは、彼を、他の様々な画家たちにも紹介した。1876年、ゴーギャンの作品の一つがサロンに入選する。1877年、ゴーギャンは、川を渡って都心を離れたパリ15区ヴォージラールに引っ越し、この時、初めて家にアトリエを持った[9]。元株式仲買人で画家を目指していた親友エミール・シェフネッケルも、近くに住んでいた。ゴーギャンは、1879年の第4回印象派展に息子エミールの彫像を出品していたが、1881年と1882年の印象派展には、絵を出展した。作品は、不評であった[10][11]。

 

 

 

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