夢を見た | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

災後の東北の何かの集会に私は出ていた、町内会館のような所に四、五十人ほどが集まり、震災復興をどのように進めるか、講演者の話を受ける形で議論が行われていた、私は黙ってそれらの議論を聞いていたのだが、高台移転、瓦礫処理、防波堤と、様々なことが

取り上げられているのだが、原発については誰も問題にしない、まるで何事もなかったかのような様子に、違和感と、異常さを感じていた、顔見知りもいる、ここは力を合わせてとか、結束してとか、誰もが絶望などしていないのだった、原発の処理も、またいつ余震で四号炉が崩壊するかも知れないと言うのに、私は咄嗟に手をあげ発言していた「あなた達は今や世界が絶望しているというのに、復興や、絆や、希望やらと、言っているが、これだけ大地が汚染されてしまい、いつ更に酷い汚染が襲うかも知れないというのに、これは絶望を見て見ぬ振りをするという死にいたる病、人間としての精神がもはや死んでいる、今や世界は絶望的状況なのだということを知らない、知ろうとしない、絶望をしない現代、今ならまだ間に合う、すべての原発を直ちに止めること」、すると司会者らしき男が、途中の私の発言を制して「そんなことは君に言われなくても解っている、問題はどのようにこの絶望を政治的勢力に結集していくかの問題なのだ、民意は脱原発に傾いているが、政治を動かすまでの力にはなっていないのだ」と、

 

夢分析

 

昼間読んだカミュ、サルトル論争のためか、反抗的人間と革命的人間、革命的という名のもとに形成される全体主義、反抗的といわれる形の中にある個人主義、私は個人主義に意味を見出しているのだった、

 

十六歳の心、収入を自ら得、未来は働きながら学ぶことで切り開いていこうと、母は去り一人暮らしのアパート、窓からの風景、ブランコと滑り台があるだけの、殺風景な公園、周囲を取り囲むようにポプラ並木、その下を一人の女学生が歩いて行く、道の先には一軒のアパート、会社を仮病で休んで、過ぎ行く時の中へ、絵のように切り取られた一つの風景が、ポプラ並木の光る緑葉と、白と黒のセーラ服、女学生の一人細々と歩く後姿、未だ知らない女という性が鮮やかに飛び込んできた、その日、リルケの詩集を読んでいたからか、愛、孤独、重さ、といったリルケの紡ぐ言葉に、まだ見ぬ世界の神秘に憧れ、歩いて数十メートル先にあるその女学生の下宿、自分と同じ高校へ、山奥からは通えず、一人下宿して通っているのだろう、彼女は昼間、私は夜間、いつの日か声をかければ、友達にも、いや恥ずかしがられて、それっきりのこと、まだ見ぬ性、鮮やかに印象付けられたこの景色のように、耐え、待つ事と、

 

私は絶望を、私対世界の、私の重さで乗り越えようとしていた、

 

現代の罪と罰の考え、リスクマネージメントという言葉に象徴される、乗り物の事故に、医療、薬害、原発にと、人はリスクを承知して恩恵に浴して行く者だとの、ラスコリニコフの苦悩、ナポレオンの罪と、自分の罪、たった一人であっても殺したことへの罪の意識、直ちに、眼に見える形での死でなければ罪は免れるとの、

癌と原発とは、現代が科学、技術、システムに価値と幻想を持つ限り発生し続ける問題、新しい人意識が、原人間的な感性の復活が、人対人、人対自然の新たな関係への、

 

夢を見た

 

いつもの街、今まで何度も来て、迷った街がまた夢に出てきた、場所は越美南線の富加駅、私の生まれた街の駅、今日の夢では、街が合成されていた、駅舎の南側は、チェルノブイリ近くの寒村のような、板囲いの家がポツンポツンとあるだけの原野と化した村が広がっていた、線路の北側が富加の街、商店街が道路に沿ってどこまでも続き、そこにはのどかな日常生活があった、歯医者、電気屋、芝居小屋、タバコ屋、その角を曲がって、八百屋、その次の次が私の家、小一までいた街を懐かしむように私は歩いていた、私は住んでいた家がまだ残っていることを確かめると、中を覗いて見る、一瞬、陽気だった頃の父がそこに居るような気がする、母も勝手で何か料理しているような、訪れている破局を私はまだ知らない、私の家の隣は醤油屋、その隣は籠屋、そこを曲がると、市橋へ行く道、

南に広がる畑の景色は、不安な記憶の景色、そこが今や廃墟となり、チェルノブイリの風景のように、私は見ないようにしていたのだが、広大な殺風景な光景に、何故か吸い寄せられていた、視界に、一人の少女が野犬に追われているのが入ってきた、私は手招きし、線路を越えるように叫んでいた、そこで夢から覚めた、かつて何度も夢の中で見た街、その夢の中の街が、3.11以降変化していた、懐かしさも、心地良さも感じられない、ノスタルジャで見ることが出来なくなっていた、

 

私の記憶の街

 

養護施設を中学の卒業を待たず出て、義父、母、妹と一緒に暮らし始めた最初の街、徳山の港町のバーの二階、夜には「いつでも夢を」の歌が流れていた、母と義父は市内の中華料理屋で働いていた、夜を母たちが持ってくる宴会の残り物を待って過ごした、知らない町の、知らない人々の中で、でも私は淋しさも、不安もなかった、養護施設を出られたこと、小四で別れた父という存在に、今義父という形ではあったが出会っているという、毎夜、義父と銭湯へ行くことが楽しみだった、母の不安をよそに、根無し草の生活を義父と楽しんでいた、と、私は過去をいつもノスタルジックに捉えてきた、それを今夢のように捉えなおしてみると、キリコの絵のように止まった時間、歪んだ時間のように、過去と言うものを見ることが出来るのだった、電車の線路はあった、が電車は走ってはいない、港の岸壁近くの一軒屋、港はあるが船はない、街はあるのだが人がいない、私と妹がその家の階段で、膝を抱えて坐っているばかり、黄昏色一色の景色、義父は訪れる破局を覚悟している、母は義父への不信、その後に訪れる不安に、半年足らずで崩れ去った生活、

 

佐賀県大町の炭住街

 

三日居ただけの町、その三日で私は変身していた、軒の低い、黒ずんだ同じ造りの家が立ち並び、暗闇の中に聳えるボタ山、街路灯が広場にポツンと、義父の嘘が全部バレてしまった、兄に諭され、泣く義父、ボタ山の前に広がる田んぼへ走って出て行く義父、追いかける私、「許してくれ」と言う義父に、一緒に泣く、明日から住む家はなく、私は夢から覚めた、

 

四日市の伯父さんの家

福岡の岩田屋デパート

大田の町

蒲田の大城通り

大桑村の市洞

蜂屋近辺 本寺川

 

カフカの街とは違う私の失われた街

これらの意味と重さ

 

存在の神秘とは、在るという、物からの不動の呼びかけ、存在への信仰とは、人存在とは関係なく、存在してきた物への、放射能も、核戦争も、存在として飲み込んでいく、自然裡の、存在という現象、存在とは時間の属性で、時間とは永遠の、時への信仰であった、存在は、自然は、人の愚劣をも気にかけず、奇形も、絶滅も我が事として存在していき、自然への畏敬とは、こうした価値や、意味とは関係なく、存在し続けていくという、時と、存在への信仰であるのだった、T氏の絵に私が見たものは、そうした自然への、存在への氏のインスピレーションであった、

 

権力構造、利権構造、人間は社会、国家を作るが、そこには常に構造が作られる、人はそこで役割を果たし、構造は封建制であろうが、資本主義、全体主義であろうが、その構造を維持し支える人間がおり、その構造を支配する人間によって、常に利用され、生物の細胞膜、ミトコンドリア、マクロファージのように、人間が社会を営む限り、その構造は、支配のためと言うより、生存のために存在し、それが不条理であるのなら、量から質への転換が起き、変更されていくものであるのだが、常に構造は作られ、その構造が人存在を規定していく、

 

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