レクイエム(Requiem)11-1 新しい聖歌の成立 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

レクイエム(Requiem)10-1
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新しい聖歌の成立

研究者の論点は、聖歌旋律の主要部分が7世紀以前のローマに起源を持つものなのか、あるいは8世紀から9世紀初頭のフランク王国に起源を持つものなのかという点である。伝統的な通説を支持する人々は、590年から604年に在位した教皇グレゴリウス1世の果たした役割の大きさを指摘している[11]。しかし、ウィリー・アーペルや Robert Snow によって支持されている、現在の研究者たちの見解では、グレゴリオ聖歌は750年頃以降にカロリング朝フランスにおいて、ローマ聖歌とガリア聖歌を統合、発展させたものと考えられている。教皇ステファヌス3世は752年から3年にかけてガリアを訪れた際に、ローマ聖歌を用いてミサをたてた。カール大帝によれば、その父ピピン3世は、ローマとの関係を強化するために、ガリア典礼を廃止してローマ式に換えたという[12]。785年から6年には、カール大帝の要望に応え、教皇ハドリアヌス1世が、ローマ聖歌を含んだ聖礼典式書をカロリング朝宮廷へ送っている。その後、このローマ聖歌は現地のガリア聖歌の影響を受けて改変されつつ記譜され、さらに8つの教会旋法へと整えられていく。このフランク・ローマ折衷のカロリング聖歌は、教会暦上不足していたものを新しい聖歌で補いながら、「グレゴリオ聖歌」として完成することになる。グレゴリウスの名を冠した理由としては、当時フランク王国に多く招聘されていたイングランドの聖職者がアングロ=サクソン教会の創立者であるグレゴリウス1世をたたえたものであるという説や、当時の教皇グレゴリウス2世(715-731 在位)を讃えてこのように名付けられたものが、後に、彼よりはるかに有名な大聖グレゴリウスに作を帰する伝説が生まれたとする説[13]がある。この伝説では、グレゴリウスは聖霊の象徴である鳩に霊感をうけて聖歌を書き取ったとされ、グレゴリオ聖歌に聖性と権威を与えることとなった。グレゴリオ聖歌がグレゴリウス1世の手になるという言説は、今日に到るまで広く信じられている[14]。

普及と覇権
グレゴリオ聖歌は、瞬く間にヨーロッパ全土に驚くほど均質な様式を保ちながら普及した。カール大帝は神聖ローマ皇帝となると、聖職者にグレゴリオ聖歌を用いなければ死罪とすると脅迫し、積極的に帝国内にグレゴリオ聖歌を広めて、聖権力および世俗権力の強化を図った[15]。英語やドイツ語の史料からは、グレゴリオ聖歌は北はスカンディナヴィア、アイスランド、フィンランドまで広まったことが窺える[16]。885年には、教皇ステファヌス2世が教会スラヴ語を用いた典礼を禁止し、これによりポーランド、モラヴィア、スロヴァキア、オーストリアなどを含む、東方のカトリック教会支配域でもグレゴリオ聖歌が優勢となった。

西方キリスト教世界の他の聖歌は、新しいグレゴリオ聖歌の強い圧迫をうけることとなった。カール大帝は父の方針を受け継ぎ、現地のガリア式の伝統を捨て、ローマ式の典礼を好んだ。9世紀には、ガリア典礼およびガリア聖歌は実質的には廃止されたが、これには地元の抵抗がないわけではなかった[17]。イングランドではソールズベリー式典礼(サルム典礼)においてグレゴリオ聖歌がケルト聖歌を駆逐した。ベネヴェント聖歌については、1058年の教皇教令によって禁止されるまで、1世紀以上、グレゴリオ聖歌と共存した。モザラベ聖歌は、西ゴート族とムーア人の流入のなか生き残ったが、レコンキスタによりスペインにローマの支持を受けた高位聖職者が配置されるに至り、廃されることとなった。一握りの限られた教会でのみ歌うことが許されたために、現代のモザラベ聖歌はグレゴリオ聖歌との同化が進み、もとの音楽的形態をほとんど留めていない。アンブロジオ聖歌のみが、アンブロジウスの音楽家および宗教者としての権威のために、今日までミラノにて残存している。

グレゴリオ聖歌は、やがて、ローマの固有の聖歌(今日では古ローマ聖歌と呼ばれる)にもとって代わるようになる。10世紀には、イタリアでは実質上、音楽の記譜はまったく行われておらず、ローマ教皇たちは、10世紀から11世紀にかけて、神聖ローマ皇帝からグレゴリオ聖歌を移入し続けた。例えば、クレドは神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の要望で1014年にローマ典礼に追加されたものである[18]。大聖グレゴリウスの伝説によって権威が高められたグレゴリオ聖歌は、ローマ固有の真正な聖歌とみなされるようになり、今日にまで至る。12世紀、13世紀には、グレゴリオ聖歌は西方キリスト教世界の他の聖歌を完全に凌ぎ、駆逐した。

他の聖歌に関する後代の史料からは、聖歌をグレゴリオ聖歌的な教会旋法に組織する試みなど、グレゴリオ聖歌の影響が強まる様子を見ることができる。一方で、これらの失われた聖歌の伝統はグレゴリオ聖歌の中に取り込まれていったことが、様式の分析や歴史的分析によって明らかになってきている。例えば、聖金曜日のインプロペリアは、ガリア聖歌の伝統を残していると考えられている[19]。


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レヴィン:ロバート.F. ケネディのためのレクイエム/詩篇/賛歌(ジャニツキ/イェール・カメラータ/トレゴ)
LEWIN, F.: Requiem for Robert F. Kennedy / Psalms / Hymns (Sacred Music by Frank Lewin)
このページのURL http://ml.naxos.jp/album/troy769

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ペンデレツキ:ダヴィデの詩篇より/スターバト・マーテル/造り主である聖霊よ/ケルビムの歌
PENDERECKI: Aus den Psalmen Davids / Stabat Mater / Veni creator / Song of Cherubim (Penderecki)
このページのURL http://ml.naxos.jp/album/wer6261-2

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ハイドン:マリア・テレジアのためのテ・デウム/フォーグラー:レクイエム 変ホ長調(ミュンヘン・オルフェウス合唱団/ミュンヘン・ノイエ・ホーフカペレ/グクルヘーア)
HAYDN, J.: Te Deum for the Empress Marie Therese / VOGLER, A.G.J.: Requiem in E flat major (Munich Orpheus Choir)
このページのURL http://ml.naxos.jp/album/oc922

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EASTER ALBUM (AN)
このページのURL http://ml.naxos.jp/album/8.570175-76

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ゴセック:死者のための大ミサ曲(シェルヌス)
GOSSEC, F.-J.: Grande Messe des Morts (Schernus)
このページのURL http://ml.naxos.jp/album/c10616

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シューマン:歌曲集 6 - ミルテの花 Op. 25/6つの詩とレクイエム Op. 90 (ブラウン/バウアー/ヒールシャー)
SCHUMANN, R.: Lied Edition, Vol. 6 - Myrthen, Op. 25 / 6 Gedichte und Requiem, Op. 90
このページのURL http://ml.naxos.jp/album/8.557079

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ヴァイル:7つの大罪/ベルリン・レクイエム/ハッピー・エンド/三文オペラ(マイ/ライプツィヒ放送響/ケーゲル)
WEILL, K.: 7 Deadly Sins (The) / Das Berliner Requiem / Happy End / Die Dreigroschenoper (The Threepenny Opera) (May)
このページのURL http://ml.naxos.jp/album/0013752bc

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ゴセック:死者のための大ミサ(ケルン放送合唱団/ケルン放送響/シェルヌス)
GOSSEC, F.-J.: Grande Messe des Morts (Schernus)
このページのURL http://ml.naxos.jp/album/c71043

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B. マルチェッロ:ヴェネツィアの様式によるレクイエム(アテスティス合唱団/アカデミア・デ・リ・ムジチ/ブレッサン)
MARCELLO: Requiem in the Venetian Style
このページのURL http://ml.naxos.jp/album/chan0637

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フォーレ:レクイエム/小ミサ (オックスフォード・スコラ/サマリー)
FAURE: Requiem / Messe Basse
このページのURL http://ml.naxos.jp/album/8.550765