「土」、「病中雑詠」  長塚節  | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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   土

 

 

  長塚節     四  お品の容態は其の夜から激變した。勘次が漸く眠に落ちた時お品は 「口が開けなく成つて仕やうねえよう」と情ない聲でいつた。お品は顎が釘附にされたやうに成つて、唾を飮むにも喉が狹められたやうに感じた。それで自分にもどうすることも出來ないのに驚いた。勘次も吃驚して起きた。 「どうしたんだよ大層惡いのか、朝までしつかりしてろよ」と力をつけて見たが、自分でもどうしていゝのか解らないので只はらはらしながら夜を明した。勘次は只お品が心配になるので、近所の者を頼んで取り敢ず醫者へ走らせた。さうして自分は枕元へくつゝいて居た。彼等は容易なことで醫者を聘ぶのではなかつた。然し其最も恐れを懷くべき金錢の問題が其心を抑制するには勘次は餘りに慌てゝ且驚いて居た。醫者は鬼怒川を越えて東に居る。  勘次は草臥れやしないかといつてはお品の足をさすつた。それでもお品の大儀相な容子が彼の臆した心にびりびりと響いて、迚も午後までは凝然として居ることが出來なくなつた。近所の女房が見に來て呉れたのを幸ひに自分も後から走つて行つた。  夜になつて痙攣は間斷なく發作した。熱度は非常に昂進した。液體の一滴をも攝取することが出來ないにも拘らず、亂れた髮の毛毎に傳ひて落るかと思ふやうに汗が玉をなして垂れた。蒲團を濕す汗の臭が鼻を衝いた。 「勘次さん此處に居てくろうよ」お品は苦しい内にも只管勘次を慕つた。 「おうよ、こゝに居たよ、何處へも行やしねえよ」勘次は其度に耳へ口を當ていつた。 「勘次さん」お品は又喚んた。 「怎的したよ」勘次のいつたのはお品に通じなかつたのか 「おとつゝあ、俺らとつてもなあ」とお品は少時間を措いて、さうして勘次の手を執つた。 「おつう汝はなあ、よきもなあ」といつて又發作の苦惱に陷つた。 「勘次さん、俺死んだらなあ、棺桶へ入れてくろうよ……」勘次は聞かうとすると暫く間を隔てて 「後の田の畔になあ、牛胡頽子のとこでなあ」お品は切れ切れにいつた。勘次は略其の意を了解した。  お品はそれから劇烈な發作に遮ぎられてもういはなかつた。突然 「風呂敷、風呂敷」 と理由の解らぬ囈語をいつて、意識は全く不明に成つた。遂には異常な力が加はつたかと思ふやうにお品の足は蒲團を蹴て身體が激動した。枕元に居た人々は各自に苦しむお品の足を抑へた。恁うして人々は刻々に死の運命に逼られて行くお品の病體を壓迫した。お品の發作が止んだ時は微かな其の呼吸も止つた。  夜は森として居た。雨戸が微かに動いて落葉の庭を走るのもさらさらと聞かれた。お品の身體は足の方から冷たくなつた。お品が死んだといふことを意識した時に勘次もおつぎもみんな怺へた情が一時に激發した。さうして遠慮をする餘裕を有たない彼等は聲を放つて泣いた。

 

 

 

病中雑詠

 

 

 

其一

生きも死にも天のまに/\と平らけく思ひたりしは常の時なりき

我が命惜しと悲しといはまくを恥ぢて思ひしは皆昔なり



其二

我が病いえなばうれし癒えて去なばいづべの方にあが人を待たむ

あまたゝび空しく門は過ぎゝとふ人はかへしぬ我が思止まず


打ち萎え我にも似たる山茶花の凍れる花は見る人もなし

山茶花のわびしき花よ人われも生きの限りは思ひ嘆かむ


山茶花のはなは見果てゝ去ぬらくに人は在處(ありど)も知るよしもなく

此の如ありける花を世の中に一人ぞ思ふ其の遙けきも

 

 

 

長塚節

 

 

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 

長塚節逝去の地
九州大学馬出キャンパス長塚 節(ながつか たかし、明治12年(1879年)4月3日 - 大正4年(1915年)2月8日)は、歌人、小説家。

 

 

経歴
明治12年(1879年)、茨城県岡田郡国生村(現・常総市国生)の豪農の家に生まれた。茨城県尋常中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)に入学したが4年進級後に脳神経衰弱のために退学。療養に過ごした郷里の自然に親しみつつ、文学への関心を高めていった。

 

 

19歳の時に正岡子規の写生説に共感、21歳で子規を直接訪ね、入門、『アララギ』の創刊に携わった。 もっぱら万葉の短歌の研究と作歌にはげんだが、子規の没後もその写生主義を継承した作風を発展させた。また散文の製作もてがけ、写生文を筆頭に数々の小説を『ホトトギス』に掲載。また、長編「土」を『東京朝日新聞』に連載、その代表作となった。農民小説のさきがけの一人として知られ、当時の農村の写実的描写が見事である。

 

 

明治45年は喉頭結核を発病、病に苦しみ九州帝国大学医学部の久保猪之吉博士を頼って同病院に入院しで加療したが大正4年(1915年)、九州帝大にて没した。享年37。

 

 

正岡子規の正当な後継者であると言われている。

 

 

現在、常総市では短編小説・短歌・俳句の三部門について長塚節文学賞が隔年で実施されている。

 

 

関連作品
白き瓶-小説 長塚節(藤沢周平、文藝春秋 初版1985年/文春文庫で再刊)