田畑修一郎 「さかだち学校」「消毒母あさん」「おいらのゆめは」 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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  日本児童文学体系
 

 

   田畑修一郎(たばたしゅういちろう)

 

 

 

   さかだち学校


 二 ふしぎな新聞広告

 私が「ちんがの村のさかだち学校」のことを知つたのは、ちやうど、さういふ時のことだった。
 ある日、私は何気なく新聞をひっくり返して見ていたのだが、ふとその広告欄に小さくはあるけれども、とても変な文句を見つけたのである。

   教師兼小使を求む。ただし、機械、農作、絵、手工、
   なんでもかまはぬが知識よりも技術のことをほんたう
   に知つてゐる人。または、技術はなくとも働くことの
   好きな人、正直な人、夢を持つ人。

 教師、兼小使。といふのがわたしにはだいいちなんだか滑稽に思はれた。これに似たことでは、村長さん兼小使とか、社長さん兼給仕だといふことを私は度々聞いたことがある、


  十一 消毒母あさん

 ちやうどそのとき、向かふから肥料桶をかついだ組や、落葉をモッコに入れて運ぶ組だのが、ぞろぞろ列をつくつてやって来た。

   ワッショイ ワッショイ
   ワッショイ ワッショイ

あんまり威勢がよいので、小島君のお母さんは目をまるくして、ハンケチで鼻をつまみながらわきへどいてゐた。
 列は近づいた。それから、誰がはじめるともなしに、口をそろへてうたひ出した。
 
   さんさん日照れ 風吹けごう
   ざんざん雨降れ 風吹けごう

   畑にぴよい出た つくしんぼう
   ぴよんぴよん ぴよい出たつくしんぼう

   おいらは風の子だ
   おいらは土の子だ



  二十 おいらのゆめは

 「ああ、さんさん日照れ、風吹け、ごう」と、私は胸の高鳴るのをおぼえながら、口に出してうたつた。
あの滑空機は、あすこの草つ原の上で、生徒たちを乗せて、矢のやうに、速く、軽く、飛ぶだろう。だんだんと高く、だんだんと遠くへ。----やがて、時がたてば、もつともつとすばらしい滑空機が、飛び上がり、旋回し、また高く、雲の上へとかけ上り、ゆるやかにゆるやかに、はてしない若々しい希望をのせて、どこまでも飛びつづけるだらう。

   おいらのゆめは
   山のかなたの 空より高い
   山のかなたの 空より遠い

 じっと見送つてゐる私の耳には、生徒たちの歌が、風にのつて聞こえてくるのだつた。

 

 

 

 

田畑修一郎(本名 田畑修蔵/1903~1943) 作家
 
那賀郡益田町(現益田市)に生まれる。少年時代、銀行家の父が自殺したため、旅館や料亭を営む田畑キクの養子になる。浜田中学校卒業後、早稲田大学英文科に進んだが、中退する。学生時代から、宇野浩二に師事し、後に火野葦平らと同人誌『街』を創刊する。昭和7年に自伝的創作『鳥羽家の子供』を発表し、芥川賞を中山義秀の『厚物咲』と争う。自己凝視に優れた作風で、将来を嘱望されたが、北陸に取材旅行中に志半ばにして倒れた。