リュリの音楽 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

 私が考えているのは小説形式ではないのだ、形式は早や私にとって何の意味も持っていない、自分
の考えを、考える事を形式で考えたくない、勿論論理立てて考える者、直感のようなもので考え
る者、形式のようなものがあるかのように見えるが、人が考えることにおいて、ある方法、形式など
はない、考えること全部を含めた所の考えなのだ、小説とは考えるものであり、形式であってはなら
ない、百人、百様のその考えに差はないにしても、過程、精神のひれきが無いなら、形式化したと
きから死ぬ、人はしゃべる、考えながらしゃべる。

 私の聖書を書く、私の佛典を書く、と人類の英知を考えに入れ書くことが、文学の残された課題となる。何の為に生くかと考える時、それでなくては意味を感じられない。私小説的ノスタルジーなどであってはつまらない、最高を最先端を想像することにおいてのみ、存在意味があるのだった。
 歴史の過程 時代と人間の思考の追体験。全文化の過程 全知識を考えに入れて。
 死の受容が人の到達点ではあるが、到達の後の人に於いて何が残るのか。あたかも生命が細胞膜を
取り払って元の世界と一体のような精神の物質化がおこるのだろうか。受容はまだ細胞膜を精神にお
いて残している。圧倒的多数の精神は世界と一体ではないにしても隔たってはいない、世界そのもの
のようだ。名もなく死んで行く者、殺されて行く者、世界がそれらの人々を知ることはない、
圧倒的多数は知られることもなくひっそりと死んでいく。人は到達をしてもなを、何故の生命なのか
と問い続ける、何故の生命なのかと、1000年後、2000年後、否一万年後にあって、一万年前の
人と何ら変わらない生命ではあろう、一万年前の生命、この有機体に在ったという痕跡、遺伝子の伝搬者としての人。

  音楽は何のために存在するのかと、人を喜ばせるためでもなく、自らの楽しみの為で
もなく、死者への捧げもの、死者を蘇らせる為のもの、死者との対話の為のものと、深い孤独の内に
作曲し、人知れず演奏し、生前にはその楽譜の出版、演奏もしないで、ひたすら死んだ妻との対話の為に
書き、生きたとマレイの回想、忘れられた死者のこと、忘れられた魂のこと、ディキンソンとも
、プルーストとも、イエスとも、佛陀とも誰とも違う、音楽の捧げもの。死者への手紙、魂の呟き、
 二人のベロニカ 人間の精神的なものの描写がテーマとなっている。もう一人の私がいる、そのも
う一人の私の不幸に対し人は感じ、涙し、変化する、人が国を超え共感するのは、じつにこのもう一人の私という感覚があるからに他ならないと語っている。人間は一つ、一体のものであったという感覚、あらゆる生命と、かつて一体であったという包まれた感情、知らぬ世界の悲しみ、苦しみを我が事として感じる精神を描いていた。
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php
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