美しい生きものたちの世界へ | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

食べれて、歩けて、見ることが出来た一日、世界を、いつ死んでもいいなの感情から見つめると、どれもが奇跡に思え、木の緑、鳥の声、空、風、人が宇宙を旅する時代の人々の感情のような、地球には雨が降り、生きものたちが住んでいることの奇蹟性、当たり前のことが死者の視点、宇宙船の視点から見ると、何と輝き、素晴らしい世界なことかと。

木の言葉が解る、生きものの気持が解るという、未開人のその心が今わたしは理解出来る。いつ死んでもの感情は、自分が木であり、鳥であるとの一体の感情を生む。木の死、鳥の死、そして自分の死、どれも自然死であり、何ら変わりはないと。木も鳥も一人を生きている、そして私もと。理解、言葉など本当は要らないのだった。君も一人なんだ、僕も一人で生きているよで充分だったのだ。

 自分が一匹の弱い生きものであったことを思い出す。何事にも素直で、心地良かった時のこと―――。

 点滴がとれ、十五日振りに屋上に上った。素足にコンクリートが生暖かかった。深呼吸する喉に春風がピリピリと痛かった。手を回し、足も振り上げて見た。血が騒ぐのが分かった。「風に吹かれてみたらあ」と歌も唄ってみた。かすれてはいるが、心地良く喉を振るわせる私の声があった。偶然だったのか、たまたま運が良かったのか、誰が、何の為に私を生かしたのだろう。蘇る感覚に、再び戻ってきた様々な思い出に、涙が一筋一筋、流れて止まらなかった。美しい生きものたちの世界へ、四十年間の楽しい記憶の中へ。

テーブルにコップ、水、光、この間にうれしい、きれいといった単純な言葉を置いただけの詩であっても、今の私においては一体感を表現し得ていると思える。十年かかってそのコップとの一体感の言葉を探るなど、こと他人との関係においては意味を持っているかも知れないが、物との関係は単純、明晰、一体の関係であるのだった。

踏み切りで見た線路の石ころたち、この空間に彼らが存在していることの確かさ、驚き、そして畏敬、それに引き換え、線路のむこうに見える、草や木、そして人、家の何とけなげで可憐なことであるか、一夏で生命を終えるもの、時に数百年のものと、しかし、石の存在に比べれば、幻のような、カゲロウのような不在。そして間もなく訪れる私の不在、私は、私を含めた存在を、夢でも見るように眺めていたのだった
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