さて、コメント欄にて、「弥陀如来氏についてどう思うか?」という質問が来たので、返答させて頂きます。
ん~正直言って知りませんが、色々なブログを荒らされている方なのでしょうか?
それとも、誰か特定の人物、ブログを荒らしているのでしょうか?
まぁ私には定かではありませんが、それはさておき、一つ確実に言えることがありますが、「批判や誹謗中傷なんて気にしない」ってことです。
男子たるもの、志を持ち、天下国家のために立ち上がり、世のため、人のため、神々のため、御仏のために働こうと決心したのならば、批判されること、誹謗されること、誤解されて妨害を受けること、そして迫害を受けて死ぬことなど、むしろ当然のことです。
坂本竜馬が、寿命をまっとうしたでしょうか?
吉田松陰が、天寿をまっとうされたでしょうか?
ずいぶんと次元が違いますが、イエスなんて33歳の若さで迫害を受けて、殺されてしまっているのです。
それまでイエスは、人々に「世を救う主」として、崇められておられましたが、イエスは人々に愛は語り、心の王国を説き、人々はイエスに政治的指導者を求め、現実的な独立国家を望みました。
イエスが人々に与えんとしたものと、人々がイエスに求めたもの、このギャップが、イエスの命を奪っていったわけです。
イエスの最期を描いた映画『パッション』を見て、ショック死した人もいるそうですが、イエスは茨の冠を掛けさせられ、人々からは「ユダヤの王」と笑われ、唾を吐きかけられ、鞭で打たれ、そして十字架にかけらたのです。
あるいは、もう歴史に、その名前とて定かではない人で、ゾロアスターという宗教家がおり、その方は、世界の宗教を一つにして、世界の宗教を一つにまとめようとしましたが、彼に待ち受けていたもの、それは全身の皮を剥いで殺す、という残虐なものでした。
この地球上でもっとも恐ろしいもの、それは自然災害でもなければ、獣でもなく、人間です。
人間の心、それは時に何とも恐ろしいものです。
なぜなら、人の心は深い、深い、地獄にも通じていくからです。
アウシュビッツで大勢のユダヤ人を虐殺したのも、広島と長崎に原爆を落としたのも、そしてこの地球上において、未だに人間を売り買いしたり、戦争をしたり、強引に売春宿を経営しているのも、すべて人間です。
ですから間違っている人間にも、批判と誹謗中傷の時期は訪れますが、正しい人間であっても、批判と誹謗中傷の時期は、「必ず」と言って良いほど訪れるのです。
ならばこそ、ならばこそ、人は己に対する批判と誹謗中傷に、強く、強くなければならない。
学校でも、職場でも、誰だって一度くらいは、「なぜ自分が批判されるのか?」、「なぜ私は悪くないのに、あの人から嫌われるのか?」、「なぜ自分だけが不運に遭遇するのだろうか?」と、そのように疑問を抱くことも、人間だから、人生だからあるであろう。
間違った批判され、誹謗中傷を受けた時、己の心を静かに仏に向けてみて、もしも己の心に何かしらの間違いあるのならば、それは素直に、潔く、己の心の過ちを悔い改めればよい。
「だって」とか、「しかしやはり」とか、そうした頑固な心でもって、己の心の過ちを認めないことは、己の人生を不幸せにしていく。
なぜならその「頑固さ」が、「人間としての向上」というものから、最も遠いところにいるからである。
だから己の心の過ちを素直に、潔く認めて、そして悔い改めること、それは人間としての成長に近くにおり、幸せな人生に通じていく。
しかしもしも、自分が誰かから批判と誹謗中傷を受けて、天に誓って、自分の心に過ちが無いのならば、自分が進む道が正しいと信じるのならば、批判や誹謗中傷に、我らは負けてはならない。
我らは信念を持って突き進んでいかねばならない。
己の過ちを素直に認めない頑固さと、正しいと信じた道を迷うことなく突き進む信念は、まったくもって異なる。
だから我々人間は、「世の中には、正しい批判と間違った批判がある」という真実を知らねばならず、そして我々人間は、「正しい批判」と「間違った批判」を見定める力、つまりは悟りを獲得せねばならないのである。
そしてもし、自分に向けられている批判と誹謗中傷が、本当に神や仏の心から見ても、地獄的であり、「間違っているもの」であったのならば、我々はその言葉に心の耳を傾けてはならないし、心の目を向けてもならない。
お隣の国、韓国では芸能人が自分に対するインターネット上の誹謗中傷を見て、自殺するケースが多発したようだが、地獄に通じる口汚い誹謗中傷の言葉を、我々人間は己の心にまで届かせてはならないのだ。
ここに求められしもの、それは簡単には揺れ動くことのない強い心であり、間違った批判と誹謗中傷を見定める眼力であり、そして「間違った批判である」と判断を下したのならば、バッサリとその言葉を排除していく信念であり、一言で述べるのならば、「不動心」である。
すなわち、男子たるもの、志を持ち、天下国家のために立ち上がり、世のため、人のため、神々のため、御仏のために働こうと決心したのならば、批判や誹謗に打ち克つ不動心を持つ努力が必要不可欠なのだ。
仏教にも、悪魔を降魔する「不動明王」という存在がおり、不動明王は悪魔を降伏するために、炎を背負い、両の目を怒らせ、右手には宝剣、左手には縄を持つ、という恐ろしい姿をされているが、我々人間は心の中に、不動明王を宿して生きることも大切であるのだ。
そしてこんな話がある。
ある時、一人の男が瞑想しているお釈迦様に対して、口汚い批判と誹謗中傷を浴びせ続けた。
罵詈讒謗を浴びせ続けたのだ。
男は散々、口汚く罵ったあと、息を切らせながらこう言う。
「これだけ言われたら、お前も少しは心が乱れただろう。
ハハハ!ざまあみろ」
しかしお釈迦様は言う。
「では貴方が、どこかの家に招かれたとして、そしてその家の主人に料理を出されたとする。
しかしもしも貴方が、一口もその料理を食べずに、その家をあとにしたら、その料理は誰のものか?」
男は少し考えてから、答えた。
「まぁ一口も口にしないで帰ったのならば、その料理は、その家の主人のものだろうな」
お釈迦様、つまりは釈尊、もしくは仏陀とも呼ばれる存在は、こう言われた。
「それと同じこと。
たとえ貴方が私に罵詈讒謗を浴びせようとも、私がそれを受け止めなければ、その罵詈讒謗は私のものではなく、貴方のものである」
つまり間違った批判と誹謗中傷が、自分に向けられて、そして自分がその言葉を心にまで届かせなかった時、その言葉を完全にシャットアウトすることができた時、自分は明るく伸びやかで穏やかな心を保つことができた時、その口汚い誹謗の言葉は、自分のものになるのではなく、相手のものとなるのだ。
すなわち自分が間違った批判を受けて、その批判を受け入れることなく、心に安らぎを保ち続けた時、批判した側こそが心に毒素を作っていくのである。
同じことは、イエスも言っておられる。
「人の口に入ってくるものが人を汚すのではなく、人の口から出ていくものが人を汚すのである」
ならばこそ、人は自らの心を曇らせて、他人を批判し、誹謗し、罵詈讒謗を浴びせるものではない。
そうした、人をむやみに批判し続け、人を口汚く罵り続ける人生は、間違った生き方である。
なぜなら口汚く人を罵るような、そうした罵詈讒謗を浴びせる心は、安らぎからは程遠く、そしてそうした安らぎから遠い心は、ガンなどの病を誘発させていくことなど、すでに医学的も実証済みであるからだ。
むしろ心に安らぎを保って生きることができたら、人はガンなどの病からも遠ざかって生きられることなど、すでに医学が証明しているからだ。
それはコチラ↓の記事にも、すでに書いてある。
http://ameblo.jp/misumarukai/entry-10634244604.html
さてさて、冒頭でも述べたように、私は「アメブロの阿弥陀如来」という存在を知らぬ。
しかし知らぬとも、私は一つだけ知っていることがある。
それは今、日本は国難を迎えており、そしてその国難に、日本国民が気づかぬために、日本男児たちが気づかぬために、その国難はいつしか、この国の歴史、始まって以来の最大のものとなり、今この国は滅びの危機にある以上、「国難の事実を少しでも日本国民に伝えよう。眠り続ける日本男児たちを目覚めさせよう。この国を何が何でも護り抜き、そしてさらに発展させていこう」という、私のこの想いは、どこの誰に罵詈讒謗を浴びせられようとも、天に誓い、仏に心を向けてみても、決して間違ったものではない、ということである。
だから批判など、誹謗など、私には届かぬ。
竜馬が、松陰が、批判や誹謗を恐れただろうか。
彼らは死さえ覚悟していたのだ。
酒に酔った歌舞伎役者は、どうやら杉並区の荒くれ者に土下座して、「死ぬかと思った」と、何とも情けないことを述べたようが、私はすでに死を覚悟しているのだ。
かつて沖縄の舞台から、私は自分の左胸を叩き、中国共産党に対して、「私の命はここにある」と述べたが、それは決して伊達ではなく、酔狂でもない。
かつて伊藤博文は、日露戦争前に、「もしもロシアが日本に攻めてきたら、私は戦場の最前線に立ち、妻には兵士の食事の煮炊きをさせて、この国を護り抜く」と述べたが、私たち夫婦も、覚悟においては同じである。
そしてその伊藤博文は、韓国のハルピンにて暗殺されるが、その死の話を聞いた大隈重信は、「何とも華々しい死に方で、男として羨ましい」と述べたそうだ。
その大隈も、テロリストに爆弾襲撃されて、片足を一本失うが、「国士として戦う者にとって、片足一本くらいカスリ傷である」と述べたという。
まだまだ未熟で、若輩者ながらも、私も覚悟においては、彼ら国士たちに負ける者ではなく、私も老衰による死など、少しも望んでいない以上、いちいち批判や誹謗中傷を気にしている暇はなく、その時間があるのならば、心の学習に努めるか、政治の勉強をするか、肉体の鍛錬をするか、あるいは休息のため保養のために、妻と二人でデートでもする。
なぜなら、これまで何度も、何度も述べているように、国とは人生の土台であり、国が異なれば人生が異なる以上、「国を愛して国を護る」というこは、「人を愛して人を守る」ということにも等しく、そして間違った愛国心は侵略と戦争を呼び起こすが、正しい愛国心は世界の平和に対してむしろ貢献していくからである。
だから正しい愛国心を持って立ち上がった時、人が愛おしく見えなければならない。
人は時に恐ろしいが、人はその本質において、皆が善であり、優しい生き物である。
十字架に掛けられたイエスは、自分に石を投げ、誹謗中傷する人々に対して、十字架の上からこう神に祈った。
「天なる父であられる神よ。
どうかお許し下さい。
彼らは自分が何をしているのか、それが分からないのです」
だから私は「アメブロの阿弥陀如来」と証する人を、よくは知らないが、私は一人でも多くの人に、「貴方が生きている国は今、中国によって滅びようとしているのです」という事実を伝えたいだけに過ぎない。
多くの方が気がついておられないが、今、日本は国難の時代を迎えている。
ハッキリと言うならば、日本は今、ゆっくり、ゆっくりと中国に侵略されつつある。
一つは尖閣諸島からの軍事的な占領であり、一つには白アリが大木を内部から腐らせていくように、日本国内での中国共産党の工作活動である。
日本の男たちよ、このまま我らが眠り続けていたら、この国は本当に消滅してしまうのだ。
日本の男たちよ、それで本当に良いのか?
この国がチベットやウイグルのようになって、「本当に良い」と思っている日本男児など、一人としていないはずだ。
そして私は問いたい。
日本の男たちよ、血が騒がないのか?
国難に対して、このような表現をすることは不謹慎であるが、それを承知であえて言わせてもらえば、この国難に血が騒ぎ、血が煮えたぎらないのだろうか?
かつて私は、三度の飯より、喧嘩と祭りと神輿が好きで、「喧嘩」、「祭り」、「神輿」と聞いたり、お囃子(はやし)の音色を耳にすると、体の中で血が踊り、血が煮えたぎり、血が騒いだものだが、しかし国難を打破することこそ、男子の本懐であり、これ以上に男の血が騒ぐものはない。
この時代に生まれて、「ああ、もっと乱世に生まれて、熱い人生を生き抜いてみたかった」と、そう思った豪傑もいるだろうが、日本は今、幕末以上の乱世を迎えている。
だから、どうか、どうか、↓このブログを読んで頂き、今ある日本の国難を知って頂きたい。
「日本最大の国難」
http://ameblo.jp/masuraonokaze/