さてマルクスが「共産党宣言」を出版した1848年以降に、
世界に唯物思想が広まる一方で、
その間違った思想を打ち破る動きも活発したわけだが、
これは何もアメリカやイギリスといった、
欧米諸国だけに限って行われていたことではない。
実はこの日本においても、
霊の存在を証明しようとする方々が大勢現れたのである。
まず黒住宗忠という方によって黒住教が、
中山みきという女性によって天理教が、
赤沢文治という方によって金光教が興り、
神道系の宗教が幕末に生まれたのである。
(ちなみに高校野球の強い天理高校は、
天理教の学校であるし、
PL教や智弁和歌山も宗教系の学校である)
そのためにこれらの宗教は、「幕末三大宗教」と呼ばれている。
「人間の能力にはそれぞれ違いがある」と言えば、
誰もが納得することだろう。
たとえば歌にしても、あまり上手くない人もいれば、
たった一曲の歌によって何万人もの観衆を沸かす人もいる。
そしてまたある人は、作曲ということにとても優れている。
それは絵においても同じことが言える。
レオナルド・ダ・ヴィンチのように、
とても上手い人もいれば、やはりあまり上手くない人もいるわけだ。
そしてこうした歌の能力とか、作曲の能力とか、絵画の能力というものは、
「センス」というものが非常に密接に関わっていることは、誰の目にも明らかだ。
そしてこの「センス」というものは、
「磨き上げていくで成長させる」ということもできるが、
やはり「生まれつき備わっている」と考えることもできるのではないだろうか?
あるいは「才能というものもある」と、そう表現することもできるだろう。
レオナルド・ダ・ヴィンチという方は、
幼い頃より絵のセンスに優れていたために、
「師匠の画家は、幼いダ・ヴィンチの絵を見て、
筆を折り、二度と絵を描くことはなかった」
という逸話さえ残っている。
あるいはモーツアルトの父親の話によると、
三歳の息子にピアノを教えて、休憩時間に庭を眺めていると、
どこからともなく聞いたことのない美しいメロディーが聞こえてきたそうだ。
そして驚いて振り返ると、
「誰に教わるでもなく、幼い息子が作曲していた」という逸話がある。
一説には、モーツアルトは、
6歳でシンフォニアを作曲し、11歳でオペラを書いたそうだ。
このように、確かにセンスには大きな違いがあるわけだ。
仏陀やイエスのように、
全ての人が世界宗教となる教えを説けるわけもなく、
才能には違いがあるわけだ。
そしてその一方で、人間の目や耳などの五感は、決して万能ではない。
たとえば人間の目に見える光は、一般的に赤から紫までで、
それを超える波長の光は見えない。
赤外線や紫外線は人間の目には映らないわけだ。
しかしミツバチなどは赤が見えない一方で、
実は紫外線が見えている。
また色ばかりではなく、音というものにもそうしたことが言える。
音にも波長というものがあり、
そして一般的に人間の耳で聞こえる音の波長域というものがあるわけだ。
だから犬は人間の耳では聞くことのできない音を聞き取ることができる。
犬笛をいくら吹いても、人間の耳には何も聞こえないが、
しかし犬にはとてもうるさく感じるわけである。
このように、実は我々人間が、
五感で掴み取ることができるものなど、
ほんの一部でしかなく、
そしてそれは既に科学的に認められていることである。
そして誰でも一度くらいは、
虫の知らせを聞いたり、
あるいはとても勘が優れていたことがあるのではないだろうか。
あるいは何気なく選んだ選択が、
後々になってとても素晴らしい結果をもたらして、
とてもその自分の選択が、
偶然には思えなかったことさえあるかもしれない。
「第六感とも言える力は誰にでも備わっている」と、そう主張する人もいるくらいだ。
そして、「人間の能力には生まれつき違いがある」という話と、
「人間の五感は万能ではない」という話と、
「第六感は誰にでも備わっている」という話、
さらには「霊は存在している」という話を総合して考えた時、
ここから一つの真理を導き出すことができる。
その真理とは、
映画「シック・スセンス」にもあったように、
「世の中は確かにごく一部において、
第六感が非常に優れていて、
『霊』というものを感じ取れる能力を備え持っている人がいる」ということだ。
いわゆる「霊能力者」と呼ばれる方々である。
この唯物論の強い時代において、
「霊能力者」などという言葉を使うと、
人々の嘲笑の声が聞こえてきそうだが、
しかしながら、
「人間の能力は皆が同じで、そして人間は全ての存在を把握することができる」
と、そう考えることの方が遥かに無理がある。
もちろんそうした霊的な能力が何も無いにも関わらず、
お金儲けのために嘘をつく人もたくさんいるだろう。
だからそうした人に騙されない様に、気をつけることも大切だ。
「貴方の三代前の先祖が迷っているから今の貴方は苦しんだ。
供養してあげるからお金を出しなさい」
というような話は巷に溢れている。
あるいは「お墓の向きが悪いので直しなさい」という話、
もしくは「印鑑が良くないので買い替えなさい」という話、
「悪霊に憑かれているから、お祓いしてさしあげる」という話、
こうした人の弱みに付け込む話もたくさんある。
つまり世の中には、霊能力が無いにも関わらず、
持っているふりをして語る者もいれば、
ほんの少し霊感があるけれども、
しかし類まれな霊能力を持っているように偽り、
自分を大きく見せてデタラメを語る者もいれば、
本当に霊能力を持ってはいるけれども、
自分がその力に翻弄されている者さえいるわけだ。
お金をむしり取ろうとしていたり、
恐怖心を煽ってアメやムチを使ってきたり、
その霊能力者を名乗る者が、人格的に疑問符の付く人間で、
道徳的で正常な判断ができないことなど、
世の中には山のように溢れかえっている。
つまり林檎にも美味しいものと腐ったものがあるように、
愛と善意によって霊の存在を証明しようと努力する人もいれば、
嘘や偽りを述べて霊を出世の道具にしようとする詐欺師もいるのは、
決して見逃すことのできない事実だ。
ただしかし、何度も述べているように、
箱の中に100個の林檎があり、
たとえ99個が腐っていたからといって、
箱の中の全ての林檎が腐っているわけではないように、
偽者の霊能力者がたくさんいるからといって、
愛と善意によって霊の存在を証明しようとする人がいるのも、
見逃せない真実である。
誰もが霊の存在を確認することができれば、
こうした「唯物主義が正しいのか?それとも霊魂は存在するのか?」
という議論にはならずに済むものだ。
しかし残念なことにその様にはなってはいない。
そのために、たとえ本物であろうとも、
霊能者と呼ばれる人々は、
時に変人扱いされることもあれば、嘘つき扱いされることもあれば、
詐欺師扱いされることさえある。
なぜなら多くの人が見えないものを、「自分は見える」と語るからだ。
しかし霊能力があるということは、決して楽なことではない。
霊能力者の中には、
幼い頃より他の人が目に見えないものが見え、
耳に聞こえないものが聞こえ、感じないものを感じる為に、
周囲からは「変わった子供だ」と思われてしまうことも少なくない。
大人たちは、心理学的に何か問題がるのではないのかと、
その様に感じてしまうわけである。
なぜなら「嘘をついている。大人をからかっている」としか想われないからだ。
霊能力者によっては、電車、街、店などの人混みに行くだけで、
吐き気がしたり、熱を出して調子が悪くなることもある。
当然ながら医者に見てもらっても、
もちろん肉体に異常がある訳ではないので、益々疑われてしまう。
誰かに相談したところで、「精神病に侵された」とか、
「少し変わった人間である」とか、
「何か怪しげな宗教をやっているのではないか」とか、
その様に思われてしまうことさえあるから、
孤独に陥ってしまうことも少なくない。
つまり誰からも理解されず、一人ぼっちになってしまうこともある、ということだ。
しかも挙げ句の果てに、そうした霊能力を使って、
お金儲けを企む人さえ現れて、まんまと利用されてしまうことさえ起こりうる。
『シックス・センス』という映画があったが、
あの映画も精神科医の医者は、
自分が死んだことに気づかぬままに地上を彷徨いながら、
医者として仕事を続けているつもりでいた。
おそらくあの医者は、医学と深く関わったことで、
科学を信望し過ぎたために、霊の存在を信じずに生きてきたのだろう。
そのために彼は不成仏霊として、地上を徘徊していたのだろう。
一方の主人公の男の子は、そうした不成仏霊に悩まされて、
自分自身の霊能力に翻弄され続けて、克服するまで苦しんでいた。
あの映画を視点を変えて観れば、
霊の存在を信じていなかった唯物的な精神科医が、
「霊は現実に存在していて、自分は既に死んでいる」
ということを悟って旅立っていき、
幼く未熟な霊能力者が
「霊とは本来、実は恐ろしいものではない」という悟りを得て、
自身の霊能力を克服していくストーリーとも観られる。
不成仏霊などの悪霊ならば、まだ可愛いものだが、
しかし霊というものの中には、
もっと質(たち)の悪い者がいることも十分に考えられる。
なぜなら生きている人間の中にも、
善人もいれば悪人もいるように、死んで霊となった者の中にも、
「善人もいれば悪人もいる」と考えるのが自然だからだ。
つまり積極的に人を苦しめ、
世の中を破壊することに喜びを感じている人間は、
死んでも同じように、積極的に人を苦しめ、
世の中を破壊することに喜びを感じることも、十分に想像がつくわけだ。
映画『エクソシスト(悪魔祓い)』も実話を基に造られたそうだが、
仏陀が大悟する時も、あるいはイエスが荒野で断食している時も、
あるいはマルチン・ルターが宗教改革を行った際も、
実は悪魔が現れたと言われている。
ラテン語で書かれた聖書をドイツ語に翻訳している時、
ルターの前に悪魔が現れて邪魔をして、
彼に宗教論争をもちかけてきたそうだ。
そのためにルターは悪魔にインクの瓶を投げつけ、
そのインクのシミが、今でも彼が翻訳を行ったバルトブルグ城の壁に残っているのだ。
つまり他の人が見えない、聞こえない、感じないものが、
見えて聞こえて感じる能力を持っているということは、
実は克服するまでは苦しみ以外のなにものでも無く、
そして克服するまでには、実は相当な苦しい人生の道のりがあるわけだ。
しかしそれでも愛と善意によって、
「霊は存在している」ということを、
人々に訴える人々がいるのだ。
なぜなら我々人間は、
生命の真実をきちんと知って、
そしてもしも正しい人生観を築き上げることができたら、
優しさや勇ましさに満ちた人生を生きていこうと、努力し始めるからである。
だから、中には自分のお金儲けのために、
嘘や偽りを述べる偽者の霊能力者もいるが、
しかし愛と善意によって、
霊の存在を訴えている本物の霊能力者もいるのであり、
黒住教、天理教、金光教といった幕末三大宗教を興された、
黒住宗忠氏も、中山みき氏も、赤沢文治氏も、
アジアやヨーロッパの文明の礎を築かれた仏陀やイエスには及ばないにしても、
それなりの霊能力を持っていたのであり、
こうした幕末三大宗教が、
実は明治維新以降に訪れるマルクス思想から、
この国を護る一つの防波堤となったのである。
そして明治、大正、昭和には、
出口王仁三郎氏が現れて、大本(教)が勢いづき、
さらに出口氏は、内田良平氏などと共に昭和神聖会という政治団体も創ると、
当時の大日本帝国の過ちを痛烈に批判した。
また出口氏の弟子には、
「生長の家」を創られた谷口雅春氏、
あるいは日本心霊協会を創られた浅野和三郎氏という方もいた。
こうした黒住教、天理教、金光教、大本教、生長の家といった神道系の宗教団体、
あるいは神社本庁が組織したのが、
現在の「日本会議」という政治組織であり、
日本会議は戦後の日本の政治に対して、多大な影響を与えてきた。
もしもこの日本が赤化(マルクス主義化)して、
ソ連に飲み込まれていれば、
すでに簡単に皇室は解体させられ、
この国も、中国や北朝鮮のような自由の無い独裁国家となっていたことだろう。
こうしたことを考えた時、
多くの日本国民が知らないことだが、
幕末以降に興った神道系の宗教は、
実はこの日本をマルクス思想から護る上で、大きな役割を果たしてきたのだ。
つまり政治活動のみが日本を護ったのではなく、
宗教活動もこの日本を護ってきたわけだ。
なぜなら唯物論などの間違った思想から国を護り、
さらにその思想を打ち破っていくためには、
「霊は存在している」といった真理に基づいた思想が必要不可欠だからだ。
すなわちこれは思想戦であるが、
そこには真実と虚偽の戦いがあり、正義と無知の戦いがあったわけだ。
今、この国は、「日本最大の国難
」を迎えているが、
この国難を打破して、
そしてマルクス思想に染まった中国や北朝鮮に生きる方々を救い出し、
アジアに平和を築き上げていくためには、
やはり思想戦は欠かすことのできない、重要な戦いと言えるだろう。
だからこそ日本を護り、中国や北朝鮮に生きる人々を助け、
アジアに平和をもたらすために、未熟者の私が、
少しでも何かをしようと本を書いたり、ブログを行っているのである。
思想戦の勝利、
その先に日本のさらなる繁栄とアジアの平和がある以上、
ここにまた大和魂があると言えるだろう。
大和魂を蘇らせ、
日本を護り、
中国や北朝鮮に生きる人々を助け、
アジアに平和をもたらす、
ここには思想戦が存在し、
その最大の武器こそ真理であり、
そして真理の前に敵など一人もいないことを、
どうか知って頂きたい。
マルクス思想に染まる唯物論国家から、
この国を護り、アジアに平和をもたらす鍵、
それは霊である。