今から三千数百年前、
ユダヤ教を興したモーゼという方は、
「殺してはならない」、
「盗んではならない」、
「嘘を言ってはならない」
と、
今では当然のことを教えた。
それはなぜかといえば、
こうした今では当然のことでさえ、
あの時代では明確には分かってはおらず、
当時のユダヤ人たちの間で混乱があったからだ。
だからモーゼがユダヤの民に教えを説くことで、
ユダヤ教が興り、そしてユダヤ文明が興っていった。
また今から二千年前、
キリスト教を興したイエスという方は、
「汝の敵を愛し許せ」ということを教えた。
なぜなら当時は、
「目には目を歯には歯を」
という報復法が当然とされていたからだ。
これは
「目をやられたら目まで、
歯をやられたら歯まで、
必要以上に報復をしてはならない」
という一つの戒めではあるが、
しかしそうした報復が当たり前とされている殺伐とした時代において、
イエスは全く逆の許しの愛を教えたのだ。
イエスは言う。
「目には目を、歯には歯を、
そう貴方がたは聞いているでしょう。
しかし私は貴方がたに言っておきます。
右の頬を殴られたら左の頬を差し出しなさい。
上着を盗まれたら下着も差し出しなさい」
と。
こうして赦(ゆる)しの精神がヨーロッパに広がったことで、
ヨーロッパの文明は興隆を果たした。
さらに今から千六百年前、
アラブの地は「ジャーヒリーヤ」、
「無智の時代」と呼ばれ、
まさしく人間が獣の如く生きる、
荒れはてた時代であった。
砂漠において一人で生きること、
あるいは個人主義であることは「死」を意味しているために、
アラブでは部族単位で生活することが当たり前であったが、
しかし部族同士の闘争と略奪が絶えず、
男子は戦士としてとても重宝されたが、
女児はとても蔑まれ、
場合によっては生まれてすぐに、
生きたまま埋められて捨てられることさえあった。
つまり人間が、
人間の手によって間引きされていたわけだ。
そこでムハンマドという方は、
イスラム教という宗教を新たに興して、
人々に善悪を教えた。
こうしてアラブ世界にイスラム文明が興った。
これは儒教や道教、
そして仏教も同様であり、
儒教や道教が中華文明を発展させ、
そして2500年前のインドで興った仏教が、
アジアの文明を興隆させたわけだ。
「仏教とはどんな教えですか?」
昔、ある時、
一人の仏の弟子に対して、
こんな質問をした人がいた。
こうした質問に対して、
その仏弟子はこう答えたそうだ。
「諸悪莫作(しょあくまくさ)、
衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)」と。
つまり
「仏教の教えとは悪いことを行わず、
善いことを行う生き方をしなさい、
そういう教えです」と、
そう答えたわけだ。
その答えに対して、質問した人は言う。
「なんだそんなことなら、
幼い子供でも知っているではないか」と。
するとその仏弟子はさらにこう言った。
「確かに幼い子供でも知っているけど、
年老いた老人でも、
なかなかそうした生き方ができないものである」
それを聞いて「なるほど」と、
その人は感動したそうだ。
確かに我々人間は、
「悪いことを行わず、善い行いをしてい生きる」
ということが素晴らしいと知ってはいる。
しかしなかなかそうした道徳的な生き方ができないのが、
私たち人間であり、
そうした生き方のできる人間に心を育て守るのが、
実は仏教であり、そして様々な宗教なわけだ。
「宗教」、この言葉が嫌いで、
この言葉を聞いただけでアレルギーを感じ、
鳥肌を立たせる日本人は多いだろうが、
しかし心の善悪について語る教育、
それこそが実は宗教であり、
宗教こそが人間の心を正し、
そして豊かに育むものである。
では大和魂の根本は、果たしてどこにあるのだろうか。
かつて新渡戸稲造という方がいた。
彼は国連の創設にあたって、
尽力された偉大な方であるから、
彼の中にも「何としてでも、世界に平和をもたらそう」
という想いがあったのであろう。
ならば新渡戸稲造氏はクリスチャンではあるが、
しかし
「新渡戸稲造氏にも、大いなる平和を求める精神、大和魂があった」
と、そう言っても過言ではないはずである。
そんな新渡戸氏は、
外国の教授と散歩している際に、
こう言われたそうだ。
「それでは貴方の国には、宗教教育はないと、
そうおっしゃるのですか?」
新渡戸氏は、「ありません」と答えた。
するとその外国の教授は、驚いて歩みを止めて、
「宗教教育無しで、
どうして人々に道徳を授けることができるのですか?
日本人は何を基準に物事の善悪を学んでいるのですか?」
と、そう言ったそうだ。
外国の方にそう問われて、
それから新渡戸氏は、
自分たち日本人はどのようにして道徳を得て、
何に基づいて物事の善悪を学んでいるのかを考えた。
そして彼はやがて、
「日本人には武士道教育がある」
ということに、気が付いた。
そして彼は、日本人を外国の方々に理解してもらおうと、
「武士道」という書物を世に著した。
しかし「武士道」というものも、
結局は、神道や儒教や仏教によって築き上げられた、
宗教教育であり、
この宗教教育が日本国民に対して、
道徳と大和魂を授けていたと言えるだろう。
つまり我々日本人が、
どこから道徳や大和魂を築き上げたのかといえば、
結局は宗教なわけだ。
今、日本国内では、
「宗教」というものに携わっているだけで、
「おかしな人」とか、
「変わっている人」などと、
そのように思われてしまいがちだが、
しかし我々日本人も、
結局は、宗教から道徳を学び、
大和魂を得てきたのであり、
そしてその大和魂という精神によって、
この国はこれまで築かれ、歴史を刻んできたのである。
ならば大和魂を蘇らせ、この国を護り抜き、
さらに時代を進歩させて、世界に平和を打ち立てていくにあたって、
まずやるべきことは、
宗教に対する誤解と偏見を取り除くことであると言えるだろう。
なぜなら本物の大和魂とは、
神仏に対する信仰が必要不可欠なのだから。