少し時間が経ってしまいましたが
「光を観る旅 初もうで 清水寺」を
1/9 に 開催しました。
昨年末の紅白と「ゆく年くる年」で
清水寺の映像が出てきました。
毎回、ツアーの開催地は
「降りてくる」感覚があります。
今回の清水寺とひらめいたとき、
「なんで初もうでにお寺・・・?」と
思っていたのですが、
12年の大改修がようやく終わった、
ということで、合点がいきました。
阪急河原町駅で集合して
市バスで「清水道」で下車。
そこから清水坂を歩きます。
この日は1月最初の3連休の
真ん中の日曜日でしたが
まぁまぁちょうど良い人出でした。
(多すぎても大変だし
少なくても寂しいですし)
清水坂でランチのお店を
ピックアップしていました。
風の時代、個々が好みのものを
食べるのもいいなと思い、
それぞれのお店に数名ずつで
分かれてランチしました。
豆腐料理、お蕎麦、とんかつなど。
旅のだいご味はやっぱり
地元の美味しいものを
いただくことですね。
私は京料理らしく、
お豆腐料理にしました。
ということで清水寺へ。
【仁王門】
「奈良で修行を積んだ僧、
賢心(けんしん)が
夢で「北へ清泉を求めて行け」と
お告げを受けたことが
清水寺の始まりです。
賢心は霊夢に従って北へと歩き、
やがて京都の音羽山で
清らかな水が湧出する瀧を見つけます。
そして、この瀧のほとりで
草庵をむすび修行をする老仙人、
行叡居士(ぎょうえいこじ)と
出会ったのです。行叡居士は賢心に
観音力を込めたという霊木を授け
「あなたが来るのを待ち続けていた。
どうかこの霊木で千手観音像を彫刻し、
この観音霊地を守ってくれ」と
言い残して姿を消したといいます。
賢心は「行叡居士は観音の化身だ」と悟り、
以後、音羽山の草庵と
観音霊地を守りました。
賢心が見つけた清泉は、
その後「音羽の瀧」と呼ばれ、
現在も清らかな水が湧き続けています。」
「それから2年が経ったある日、
鹿狩りに音羽山を訪れた武人、
坂上田村麻呂が音羽の瀧で
賢心と出会います。
賢心は坂上田村麻呂に
観音霊地での殺生を戒め、
観世音菩薩の功徳を説きました。
その教えに深く感銘を受けた
坂上田村麻呂は後日、
十一面千手観世音菩薩を御本尊として
寺院を建立し、
音羽の瀧の清らかさにちなんで
清水寺と名付けたのです。」
![カラオケ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/168.gif)
清水寺は観音さまにお参りする場所です。
清水寺の御本尊は、
「十一面千手観世音菩薩」。
十一の表情と四十二の手で
大きな慈悲をあらわし、
人々を苦難から救うといわれています。
無病息災や立身出世、
良縁といった現世利益を願う人々に
篤く信仰されたこともあって、
古くから親しみを込めて
「清水の観音さん」と呼ばれてきました」
![飛び出すハート](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char4/610.png)
蝦夷の長・アテルイは
平安時代初期に
東北地方に実在した人物で、
坂上田村麻呂が率いる
大和朝廷の朝廷軍と闘い、
蝦夷の地を守り抜こうとしました。
非常に統率力に優れた人物で、
数で劣る蝦夷を率いて
朝廷軍と互角以上に闘い、
田村麻呂を苦しめたといわれています。
最後は力尽きて民衆の命と引き替えに、
もう一人の首長モレとともに
田村麻呂に投降しました。
アテルイとモレは
田村麻呂の助命嘆願も空しく、
朝廷によって死罪を申し渡されます。
そして、河内国植山で
処刑されたと伝えられています。
坂上田村麻呂の開基と伝えられる
清水寺境内に1994年、
建都1200年の節目の年に
この顕彰碑が建立されました」
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