前回のブログの更新が 6日だったので、


しばらく 更新が 空いてしまいました。



私の場合、2-3日おきに更新しているので、


6日もあくと、アクセスが 突然、急上昇することがありますアップ



まだですかー、とか、おーい、元気かぁ、みたいな


みなさまからの 言葉にならないお声が聞こえる感じですあせる


はい、遅くなってすみません、私は元気にしております。



携帯を iphone にして ipad も新しくして、


なんだかいろいろ まごまごとしていました。


携帯 ガラケーがなつかしい・・・ かお







昨日は 3・11から3年が過ぎ、


お一人お一人の胸の中に、いろいろな思いが去来したと思います。



あの日、私は富山にいて、個人セッションの最中でした。


休憩時間中で、3時からのお客様を待っているときに、ゆらゆらと揺れて


呑気に「富山 震度1なう」などと ツイッターにつぶやいておりました。


スタッフの方が 携帯のワンセグを見て、部屋に飛び込んできました。



「長谷川さん!東北がえらいことになっています!!」



呆然としながらも、まだそのときは 事態が把握できませんでした。


その後、2人の方のセッションをして、


当時 住んでいた横浜の自宅に帰る予定だったのですが


羽田空港が閉鎖となったため、富山に延泊することになりました。




呑気に居酒屋で、食事をしていたら、夜の10時半ごろに、


母から緊迫した声で、 「今どこにいるの?! 横浜は大丈夫なの?!」と電話がありました。


聞けば、テレビで 中華街が揺れている様子を 見たのだそうです。


中華街は埋め立て地なので、地盤がゆるく、建物も揺れやすいのです。


富山にいるよ、というと 母は安心した様子で、


「なかなか電話がつながらなかったから、とても心配したのよ」と


電話の向こうの声が、弱々しく聞こえました。




その夜は ホテルで 一晩中、テレビを見ていましたが、


帰宅難民の様子や、津波の惨状、気仙沼の火事、そして福島原発・・・。


当時のブログに、そのときの気持ちなどをつづった記憶があります。



私にとって、4年間続いた 横浜暮らしをやめ、


大阪に戻るきっかけになったのが、311の震災でした。



関東方面の方々から、「日ごろは偉そうなことを言いながら、逃げるのか」、


「卑怯者」、的な批判を受けたこともあります。


確かに、そう思われても仕方がなかったと思いますし、誰も責めることはできませんでした。


帰宅難民の映像を見たとき、災害時の 大都会のもろさを痛感したことも確かですし、


放射能の危険性も、短期間で、相当、学習しました。


何よりも 大阪の実家には、70歳を過ぎた母がおりまして、


富山で足止めをくらったときの心配そうな声を聞いたときに、


「あぁ、そろそろ、近くにいないといけないな」と思ったことも大きな理由の一つでした。




この日本は、阪神・淡路大震災から50年間は、


M8クラスの地震が いつどこで起こっても、おかしくはないそうです。


1995年から 50年ですから、2045年までです。


自然が相手ですから それも確証はないわけで、長ければ100年続くかもしれないし・・・。


なので、ワタシの一生は これから先、大地震の恐怖と ずっと、隣り合わせです。


大阪だって 関東だって 九州だって、北海道だって リスクは同じです。


もしも関西で地震が起こったら、福井には原発銀座がありますし


「近畿の水がめ・びわ湖」は 放射能で汚染され、関西一円の水はアウトです。


 

それでも大阪に戻ろうと思ったのは、


離れたところで、互いの状況を心配しているよりも、


少しでも肉親に近いところにいたほうが良いと思ったことと、この先に


もしも何かあったとき、少しでも残りの時間を共有しておこうと考えたからです。


「もっと親孝行しておけばよかった」「もっとこうしてあげれば良かった」という、


後悔に満ちた言葉を、使いたくはなかったからです。


・・・となるともう、横浜に残る理由は 何一つありませんでした。




不思議なことに、その後、そしりを受けたはずの関東方面の方々からの 


お問合せや、セッションのご依頼が相次ぎ、


結局、また関東での活動が 以前よりも 活発になったのは、意外なことでした。


が、「軸足」を関西に定めたことに まったくブレはありませんでした。




あの震災が、それぞれの方にとって 何がしかのショックをもたらし、


「何もできない自分」を 見せつけられたことだけは 間違いないと思います。


あのとき、どこにも 百点満点の 正解はなかった。


誰が正しくて、何が良くて 悪くて、とか そういうことは 二の次、三の次という状況でした。


ただ 誰もが、目の前のことに せいいっぱいで。


それぞれが、今の自分にとって最善だと思うことしか、できなかったと思います。



 

震災の後、「このまま 関東にいるのは不安で、いったい何処に住めばいいのでしょうか?」


というご相談を、たくさん 受けました。 そういう切実なお声に対して、


さっさと関西に戻った自分がお答えするのもどうかとは思ったのですが、


「今の自分にできる 最善を尽くし、考え、行動するよりほかない」としか


私には答えられませんでした。


考えれば考えるほど、実際、そうするしかないという答えしか、出せませんでした。


それは未だに、まったく変わってはいません。




311の震災で私が得た教訓とは



・国や自治体、誰かが助けてくれるというのは 幻想だと思うくらいでちょうどいい。


・自分にとっての最善は えてして他者に対して 不快感を感じさせる場合もある、


 しかし、それを恐れてはならない。


・最後の最後、己の身を守るのは、己しかない。


・それをしっかりと 腹の底にセットした上で、他者と助け合うこと。



・・・というようなことでした。


(そういえば、先日見た、映画『永遠のゼロ』の主人公、宮部久蔵は、戦時中に

 軍人でありながら、こういう生き方をしていたのではないかと思います)





311の出来事は、強烈な自立心というか、本能というか、


ぼーっと 座っていたら、そのうち誰かに助けてもらえる、なんていう


「平和的日本人ボケ」は もう通用しないぞ、という思いを強くしたのです。



東京の講座では 2012年から そういうことを たくさんお話ししてきました。




今でも、普段 持ち歩く、私の重たいカバンの中には、


ライター型のAM/FMラジオと 方位磁石が入っています。


災害時には あっというまに、携帯が通じなくなるのを痛感したからです。


.電車やバスの中で 携帯が通じなくなっても、たまたま乗り合わせた乗客の中に、


一人くらい、そういう人間がいれば 緊急の情報を伝えられるのではと思うからです。



それを周囲の人に伝えられたら、少しは、安心の要素が増えるかもしれません。


風向きや、方角を知るのに、方位磁石があると、


どっちに向かって歩けばいいのかという、一応の目安にもなるでしょう。



携帯の電池も、非常時は、できる限り伸ばさねばなりません。


なので、携帯のほかに ipad も入れています。


フェイスブックや ツイッターの情報も見られるし。


理想としては、ここに 500ミリサイズの水のペットボトルが


1本あれば最高なんですけど。

(でも けっこう、重たいので・・・いつもと言うわけには・・・汗




私は町を歩くとき、東京でも大阪でも、ほかの 出張先でも 


「ここなら水が確保できそうだ」とか、「このビルはガラスが危ないな・・・」とか


「なんかあったら、ここに飛び込むといいかも」などと、


そんなふうに考えながら歩いています。道すがらコンビニがあったら、


とにかく飛び込んで最低限の水と食料を確保しよう、とか。




あるいは、大きなシティホテルへ行くのも いいかもしれません。


高い値段のホテルでも、近くにいる女性数名に声をかけて 一部屋を押さえれば、


最低限の水や毛布、雨風しのげる空間は確保できると思います。


大都市ならば、込み合う駅などに押しかけるよりも、しばらく安全な場所に退避して、


動かないでいることも必要かもしれません。


そういう場所で1-2日、身の安全を確保しておけば体力も温存できます。


駅の階段で座って待つとか、無理にでも歩いて帰ろうとか、


あんまりそういうことを考えるタチではありません(^^;)


パニックを起こして、みんながするから私も・・・、


みたいな動き方は、普段からあまりしないほうです。




大きなホテルならば水や乾パンなどの備蓄もしているでしょうし、


停電になっても、非常用電源などもあるのではと思います。

津波の恐れがあるならば できるだけ高層階に上がるか


余震で倒壊の恐れがあるなら 地下にいたほうがいいのかもしれません。


それは そのときの状況で判断するしかないでしょう。


危機的状況のときこそ、「本能的な嗅覚」が 生死の境目を分けるのです。



実際に、震災のときに、私は富山のホテルに2泊して様子を見ていました。


富山から大阪の実家に戻るという方法もありましたし。


それに無理して羽田へ飛んでも、羽田から横浜までが大変です。


ニュースを見ていると、東京や横浜の駅や道路は、帰宅難民であふれていて、


出張の大きな荷物を抱えて歩くのは、とても無理でした。


2日後の3月13日には、飛行機も飛び、電車も時刻表通りに動いていました。


あのニュースの様相がウソのように、駅にも、電車の中にも


日曜日でお客さんはほとんどいませんでした。


翌日から計画停電で電車が動かなくなりましたが、


うまい具合に、そのスキマに戻って来れたのでした。


富山に滞在していたときに、コンビニやスーパーで当座の食料を買っておいたので、


横浜のお店でパンやおにぎりがなくなっていても、特に不安になることもありませんでした。


ほんの少し、冷静になり、知恵を使えば、「大変な状況」は 避けられるものです。




 

2045年まで、こういう気持ちを忘れないで生きていくことが大事だと思っています。


東北でも、明治時代の言い伝えを守って、高台から降りなかった集落では、


今回の津波でも ほとんどの人が助かったと聞きます。


教訓を生かす、とはそういうことだと思います。





・・・311の日、ある集まりに参加することになり、


不思議なことに 私は もう一つの被災地 神戸の地に立っていました。



19年前、この場所も、未曾有の混乱の真っただなかにありました。


ここでも、6000人の方が、命を落とされたのです。



西に軸足を定める、と決意した自分にとって、


これ以上の場所はない、最高の めぐり合わせだと思いました。




・・・あんまり、311については書かないでおこうかと思っていたのですが


ついつい 筆がすべってしまいました。


どこにも正解はないと思っています。


私のことばが誰かにとって不愉快なこともあるかもしれません。



あの震災で 


「何が最善なのか、何が正解なのか、は自分自身で しっかり考えなさい。


『自分にとっては』というものさしが、一番 大事なのです。」


ということを 天が伝えたかったのではないかと 私は考えています。



3年を過ぎた、今でも その思いは消えていません。


アイデンティティを失いかけていた、日本人への鉄槌だったと思っています。


神戸でも、東北でも、たくさんの御魂が 身を挺して伝えてくださった


我々への大切な教訓だと思っています。


残された者は この生命を 使い切ることがせめてもの供養である・・・。


毎年、117の日も 311の日も、その思いを再確認しています。




                                      合掌。