毎日、暑い日が続いております。
おっと、甲子園は前橋育英が初優勝だそうですね ← 速報!
さて、9月15日に、横浜市の三渓園にツアーを開催します。
なんでだか分かりませんが、どうしても 行ってみたくなったので
9月はこちらに伺います
まずはJR根岸駅からバスに乗って 約10分。
本牧のバス停で降ります。
横断歩道を渡ると、なにやら な 感じの中華料理屋さんがあります
中国料理「桃李」さん。045-625-6473
さすが横浜、やはり中華は 実力派の店が何気にあります。
もういきなり、ご飯にします~
蒸し物がいろいろ載っていて、美味しいです。
麺類の単品も充実しています。当日は 辛い系の麺に しようかな・・・
さて、お腹もいっぱいになったところで、三渓園に向かって歩きます。
道すがら 「亀の子石」とい鳥居があります。
大昔、漁師の網にかかった大亀がそのまま石に化したという。
この石にお願いすると 百日咳が治ったとかご利益があるそうです。
たわしが備えられていました。
町内の方が大切になさっているのが分かりました。
さて いよいよ 三渓園の入り口です。
大きな門・・・。ここは昔、お屋敷だったのだそうです。
門をくぐって受付へ・・・それにしてもこの日も暑い日で・・・
園に住んでいるネコさんたちが 人目もはばからず おひるね中・・・
カメラを向けたところで、ピクリとも動きません
「ネーコも木陰でまるくなる~ 」あれ???
いいなぁ、君たちは・・・、あたしは仕事でここへ来てるんだよ、と
思わず言いそうになりつつ(笑)、
しかし目の前には、広大な大池が 広がっています。
水辺にいるだけでも 涼を感じます
三渓園
「三溪園は生糸貿易により財を成した実業家 原 三溪によって、
1906年(明治39)5月1日に公開されました。
175,000m2に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された
歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されています。
(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)
東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、
三溪の手により1902年(明治35)頃から造成が始められ、
1914年(大正3)に外苑、1922年(大正11)に内苑が完成するに至りました。
三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「御輿振り」、
横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する
多くの作品が園内で生まれました。その後、戦災により大きな被害をうけ、
1953年(昭和28年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、
財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施し現在に至ります。」HPより
睡蓮の池の前には、鶴翔閣という建物があります。
平面が鶴の飛翔の形をしているので 鶴翔閣というそうです。
現在は 婚礼や お茶会、イベントなどに貸出されている建物です。
「原 三溪(本名富太郎)(1868年/慶応4-1939年/昭和14)
岐阜県厚見郡佐波村(現在の岐阜県岐阜市柳津町)で代々に渡り、
庄屋をつとめた青木家の長男として生まれました。
幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、1885年(明治18)
東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、政治・法律を学びました。
1888年(明治21)頃に跡見学校の助教師になり、1891年(明治24)に、
教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚し、原家に入籍。
原家の家業を継ぐと、個人商社を合名会社へと改組、
生糸輸出を始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、
実業家として成功を収めました。
実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、
住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、
1906年(明治39)三溪園を無料開園するほか、
美術品の蒐集や芸術家の支援・育成を行いました。
1923年(大正12)の関東大震災後は、横浜市復興会長に就任し、
それまでの作家支援を止め荒廃した横浜の復興に力を注ぎました。
三溪自身も書画をたしなみ、その作品の一部は、園内の三溪記念館に収蔵されています。」HPより
うーむ。横浜では、本当に有名な方なんですね・・・。
ガイドさんに内苑と呼ばれる、原家の邸宅跡を案内していただきました。
1708年ごろ創建。京都東山の西方寺にあった薬医門。
1649年(慶安2年)建築
桃山時代に豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と伝えられていましたが、
現在では和歌山県岩出市にあった紀州徳川家の別荘
巌出御殿(いわでごてん)ではないかと考えられています。
豊臣秀吉が母のために建てた寿塔を覆うための建物で、
現在、秀吉が建てたものと確認できる数少ないものです。
迦陵頻迦(かりょうびんが)や蓮の花などの彫りの深い装飾、
そりあがった屋根は、荘厳さを感じさせます。
月花殿。1603年【慶長8年) 建築。
初代徳川家康により、京都伏見城内に建てられたものといわれています。
1918年(大正7年)に春草廬と共に移築されました。三溪が建てた金毛窟とつながっています。
もとは、建長寺の近くにあった心平寺の地蔵堂で、1916年(大正5年)に移築されました。
建築様式は禅宗様(ぜんしゅうよう)を主体としています。
徳川家光が二条城内に建て、後に春日局が賜ったと伝わる建物。
各部の意匠は独創性・変化に富みますが、書院造としての格や
茶亭としての機能に応じて緻密に構成されています。
L字型の一段下がった杢板敷きの入口は舟で漕ぎ着ける場を想像させ、
当初は水辺に面して建てられたのかもしれません。
江戸時代はじめの上流武士階級の風流な文化が伝わります。
この建物は江戸時代の武士 佐久間将監(さくましょうげん)の作と伝わります。
小堀遠州(こぼりえんしゅう)と同時代に幕府の造営・修繕に関わる
作事方を務めた人物で両者とも茶の湯に深く似た境遇であったため、
遠州はライバル的存在であったのかもしれません。
この建物から将監の挑戦・意欲が伺えます。
遊歩道。ここは奈良・飛鳥の石棺が置かれています。
三畳台目(さんじょうだいめ)の小間茶室は、織田有楽斎の作品と伝えられています。
もとは、現在の春草廬の位置にありましたが、 第二次世界大戦後に
竹林にある茶室という構想のもとに現在の位置へ再築されました。
二畳中板(にじょうなかいた)の小間と六畳の広間、土間からなっています。
・・・とここまでが 内苑と呼ばれる 原三渓の邸宅跡です。
・・しかしまぁ、・どんだけ広いねん・・・
ガイドさんに案内していただいて、小一時間ほどで回ることができます。
この日は 猛暑でしたが 園内には 軽食やお茶がいただけるお店もあるんです。
あまりの暑さに耐えかねて・・・、
今日は、イチゴミルクにしました・・・
![かに座](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/215.gif)
あと、まだ 外苑も・・・あるんだよね・・・
しばし休憩です・・・。
ちょっとだけ ほっこりタイム
で とりあえず お知らせです
「光を観る旅 横浜・三渓園ツアー」
9月15日(日) JR根岸駅 開札前集合
つづく!!