6月10日は時の記念日。


日本初の時計が 鐘を打った日が6月10日であることから


この日となった。なお、「漏尅」すなわち「漏刻」とは水時計 のことである。



日本で初めて 水時計をおつくりになられた 

天武天皇をお祭りした、近江神宮へ、先日参拝してきました。


近江神宮

天智天皇7年(667年)に同天皇が当地に近江京 を営み、


飛鳥 から遷都 とした由緒に因み、同天皇を祭神として創祀された。

天智天皇が日本で初めて水時計(漏刻)を設置した歴史から


境内には各地の時計業者が寄進した日時計や

漏刻などを飾ってあり時計館宝物館が併設されている。


また、『小倉百人一首』の第1首目の歌を詠んだ天智天皇にちなみ、

競技かるたのチャンピオンを決める

名人位・クイーン位決定戦が毎年1月に行われている。

                          (ウィキペディアより)



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境内には、奉納された時計がたくさんあります。


LOREX社が奉納した龍の形の日時計。


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オメガ社が奉納された漏刻。


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水時計の原型の模型が飾られていました。



境内には、時計博物館がありまして、

すべて奉納されたものが展示されています。

貴重な品ばかりでした。



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昭和15年の創建ですが、とても赴きがある神社です。

昭和20年12月15日に勅祭社となりました。



勅祭社とは


祭礼に際して天皇 により勅使が

遣わされる(これを勅祭 という)神社のことである。





◎天智天皇


645年、中大兄皇子は中臣鎌足 らと謀り、

皇極天皇の御前で蘇我入鹿 を暗殺するクーデター を起こす(乙巳の変 )。


入鹿の父・蘇我蝦夷 は翌日自害した。


更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇 )、

自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新 )を行なった。

また有間皇子 など、有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃した。


百済660年新羅 に滅ぼされたため、

朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋 を送り返し、百済復興を図った。

百済救援を指揮するために筑紫 に滞在したが、

斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)斉明天皇 が崩御した。


その後、皇太子・中大兄皇子は長い間皇位に即かず称制 したが、

663年  に白村江の戦い で大敗を喫した後、

667年近江大津宮 (現在の大津市 )へ遷都 し、

翌同7年1月3日668年 2月20日 )、漸く即位した。


668年には、同母弟・大海人皇子(のちの天武天皇 )を皇太弟 とした。

しかし671年に第一皇子・大友皇子(のちの弘文天皇 )を

史上初の太政大臣 としたのち、671年に大海人皇子が

皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。



白村江の戦以後は、国土防衛の政策の一環として

水城や烽火・防人を設置した。


また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、

行政機構の整備も行っている。即位後(670年)には、

日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍 」を作成し、

公地公民制が導入されるための土台を築いていった。


「天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかった」と日本書紀 は伝える。

しかし、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱 において

大海人皇子が大友皇子に勝利して即位して天武天皇となる。

以降、天武系統の天皇が称徳天皇 まで続く。

称徳天皇崩御後に、天智の孫・白壁王(志貴皇子の子)が

即位して光仁天皇 となり、以降は天智系統が続く。

大海人皇子から額田王 を奪ったという話も有名だが、

事実ではないという説もあり真偽ははっきりしない。


                           (ウィキペディアより)




参拝の折に宮司さんがお話して下さいましたが


終戦の年、昭和天皇が近江神宮を 勅祭社となさいました。


創建してからわずか五年にもかかわらず

そのような扱いになさったのは


敗戦の当時、天智天皇の政務をお手本になさろうと

お考えになったのだそうです。


天智天皇の時代、大化の改新が行われました。


その時代 唐・新羅に滅ぼされた百済へ援軍・

4万の兵を送り、百済の再興を図られたのだそうです。


そして近江京を開かれ、戸籍制度を定められたり

国の土台をおつくりになったのだそうです。



敗戦下の日本の再生のお手本を

昭和天皇がこの近江京に求められたとは、


まったく知りませんでした。


やはりこの国には、秘められた深い深い

いろいろな歴史があるものです。