どうも。おはようございます。みさとです。

※このブログは様々な方向性の話題が詰め込まれているため、かなり長くなると予測されます。

※ブログの書き始めは7/21です

 

おはようございます、という時間に書き始めたのに、二度寝したことにより、はやこの時間です。(これ書き終わるのが何時か知らんけど)

 

twitterを更新しないと書いてからはや8日。くらいでしょうか。

今、更新しています。

更新しない、とは言ったものの、

この界隈にいる限りは完全にしないのはなかなか難しいな、と感じており。

昨日、一ノ瀬恵麻ともちらっとその話をしました。

私は1度自分が言ったことを曲げることがあまり好きではなく、自分が言った発言を(物事にはよるが)嘘にしてしまうことに抵抗があるタイプ(例外はある)。だから、どうしようか、と思っていたのですが、えまきゅんに「完璧主義なんだよ」と言われ、あぁ、そうだなぁ。よくわかってらっしゃる。となり。「ゆるゆるやればいいよ。更新すればいいよ。」と言われ。私はわりと0か100にしないと、なあなあになってしまったりして、中途半端な感じがダメなんですが、実際禁酒とかはゆるめな禁酒、とすることで1年続けた実績があるわけですし(今もゆるめな禁酒再開してから、わりとちゃんと継続している)、なんとか制御すればいけるのかもしれない。ということで。

とはいえ、わてくし、ゆるめな禁酒の時も月1は飲んでOK。どうしてもな時は月2まで。というルール決めをしていたように、きっちり分けないとできないタイプなので、Twitter投稿に関しては、この界隈に関連すること、音楽周りはここへ(ホロとかそっち系はどうするか。一旦ここだと思う。知ったきっかけここなのと、その話題できる人がここにしかいないので)、それ以外(プライベート、仕事、暗い内面部分等)はここには書かない。って形にします。例外的なものは臨機応変に。ひとまずやってみます。笑

 

以下は深堀した話

 

そもそも、私が更新をもうやめよう、と思った理由から書き始めましょうか。

①私のメンタルが不安定な状態が続いていたし、それがあまりにも不特定多数が見られる場で出すぎていて、そんな部分が出てしまっている自分自身のことも嫌になってしまった。

②つらつらつらつらと色んなことを書き連ねることが癖になってしまっていることが嫌になった。時間を溶かしすぎ

③職場以外でこの界隈以外の人と関わる機会が増え、世間一般的なちゃんとしたまともな感覚に触れる機会が増えた。それにより、この界隈特有の感じが(自身も染まりつつあるのも含め)嫌になってしまった

 

主に③に関連して長く書くことになると思うのだが、

5月、6月。私のメンタルがなかなか安定しなかった期間。表立っては書かないし絶対に言わないけれど、それにはそれなりの理由があり。そんな状態で居る時って、類友に近しい感じで、いろんな人のお話も舞い込んでくる。沢山、沢山、本当に沢山、いろんな人のこれまでの生い立ちや、これまでの人生、過去にあった辛いことや苦しいこと。今現在進行形のこと。本当に沢山のお話が舞い込んできました。皆ひとそれぞれ何かあり、何かを抱えていて、どこかに苦しい部分や辛い部分をもっていたり、悲しい過去をもっていたり、今が苦しかったり。あまり多勢に話せない問題を抱えていたりします。それを隠すために嘘をつくこともあるし、それを悟られないために笑っている人もいる。隠すためや悟られないためではなく、そう生きていないとやってられない人もいるのだろう。

この界隈に居る人は特にそういった人が多く、この界隈に浸かりきっている人や、濃度の濃い人ほどそういった人である傾向にあるように感じている。演者然りお客然り。皆人それぞれが、自分の中の地獄や悲しみや辛さ、そんなものと付き合いながら生きているのだ。

 

ライブハウスで過ごす時間。というのは、とても楽しいものであり、お酒を飲みながら仲間達と好きな音楽を浴びる。こんな最高な時間は、ない。ひとときだけでも、色々なことが忘れられる瞬間があり、ひとときだけでも、自分の中の気持ちが吐き出せる瞬間がある。それが(少なくとも私にとっては)ライブってものの存在だ。

この界隈で過ごすこと、というのは、どこか人生に疲れている人や、現実世界で疲弊している人にとって、とても気楽に居られる場所で。自分の裁量で表立っては本名も晒さずに、別のネームでこの世界では生きることができるし、自分の世界の中の現実的な部分を持ち出さずとも過ごすことができる。いわば楽園と言ってもおかしくないくらいであり、ある意味、非現実的な世界なのだ。それは、演者にとってもお客にとってもだと思う。

 

こういった場所は、あらゆる人を救ってくれる。私も、その救われたうちの一人なのだろう。

そんなことをいちいち意識しながら通い始めたわけでもない。そしてこれまでも、そんなことを意識しながら通っていたわけでもない。しかし、数年たったころ、ふと、自分の中の奥深いところを見ていったときに、そうであることに、気付いてしまった。一度だけライブハウスに連れてきたことのある、私の旧友から言われた、「ライブでごまかしている」という一言も、気付きのきっかけの一つなのであろう。

そんなことに気付き、一時的なごまかしをずっと自分が続けていることに気付き、自分の抱える問題は何一つ解決されていないことに気付き。それでもなお、私は、その問題に向き合うにはパワーが足らずに、しばらくごまかすことを続けていた。ふと。ある時。自分が現実とそろそろ向き合わなければいけない、となった。それが、昨年の10月、私が30歳の誕生日を迎えた時のことである。ありがたいことに、この世界にどっぷりと浸かっていた私にも、この世界以外の人で0:00に「お誕生日おめでとう」と送ってきてくれる友人も居れば、あえて私の誕生日、ということには触れずに自然と私の誕生日近くに予定を合わせてご飯に行く誘いをしてくれて、誕プレを渡してきてくれた友達もいる。わりと自分自身のことは、くずだ、と思っているので、こんな私にこうして居てくれる人が、私の本名を知り、住んでいる場所を知り、プライベートでの現実的な世界において私を知っている人の中で、まだいるんだよな。と思った。私もそろそろ、自分の中の現実に向き合わなければいけない、この非現実的な世界から一回身を離して、気付いたら減っていた、こういった人たちとの時間を増やして、この人たちにも向き合っていくし、自分自身のことにも向き合っていかなければいけないな、とそう感じた。その結果が、11月の1ヶ月間、Twitterの更新も一切やめ、ログアウトの状態にし、ライブ等にも浮上しない。一切この界隈から離れることとした期間であった。お試しとして。事前にこのことをお話していた人達がいるが、なんと反応されるだろうか、、と少し不安であった私に対して、「いいと思う。」と第一声に言ってくれた人がいた。「あなたは戻ってきてくれるでしょ。」って。そんな私の思考を受け入れるだけでなく、背中を押してくれたことが、すごく嬉しかった。これだから私は、あなたのことが好きなんだよ。ってそう思った。完全に断ち切ったこの1カ月という期間は、結果的にも私にとっていい期間であったと思う。そして、私は、戻った。そのあたりから、いろんなことを考えることが増えた。もう30になった。結婚願望があり、子供も産みたい私は、もう動かないとさすがにまずい年齢でもある。婚活しないとな、とか。自分の中で30になったことで一つ区切りができて、。とはいえ、その時期仕事が忙しく、日々仕事に追われ、婚活どころでもなくなっていた。そうこうしているうちに、程なくして、つゆの卒業が発表され。私は、彼女がそこにいる期間は、そこに集中することとした。4/7までのその期間は、仕事とかはさすがに削れないとしても、彼女のことを最優先にしていた期間だったと思う。その期間の中で、あぁ、私ってこんなにつゆのこと好きだったんだなぁ、大切だったんだなぁ、と自分がしている行動を客観的に見ながら思う節もあったりして、それがこの期間の中の気付きでもあり、私はこの期間を彼女に集中することに費やしたことに後悔がない。そうこうして過ごしているうちに、発表されたバカ死ぬの解散。4/5。まぢかぁ、、となりながら、こうも重なるものなのか、となりながら。私はその日を観ることを諦めつつも、頼んでみようか、とも考えながらも、でもきっとダメなのだろう、なんて思いながらも過ごしていて、、そのうちに出た出禁チケット。ありがたい、と思った。正直、この世界で過ごしていて、出禁チケット、なんてものを私は聞いたことがない。このチケットを出してくれたことには、何かしら意味があるなって。私は思い、その心に感謝した。そして、出禁チケットを出してくれ、と閻魔やPに掛け合ってくれたヲタク達も何人かいたようで、その人たちにも感謝している。これは人伝ではあるが、その出禁チケット、そんなものを出しているところは今まで見たことなく、人によっては、えぇ、、、?って何かを言う人もいたのかもしれない。けれど、そんな人達に対して、閻魔がキャスで、「これは私が決めたことなので。もし、そういうことを言ってくる人がいたら、あなたがもう来なくていいです。」と言っていたと聞いた。少し守られているような気分にも(勝手に)なり、私はそれを聞いた時、嬉しくなった。何事も全て気持ちなのだと、そう思った。出禁となった後、色々と気持ちがぶれることもあったけど、結果としてやはり好きなものは好きで、ずっと大好きなものは好きで、思い続けていて良かったと。そう思った。そして、私が一番熱を注いできたグループの最期を観ることができて、本当によかったと。そう思った。あの日、最後方から観たその景色は、叶う限り忘れたくない。

 

4/5、4/7と私の大好きなものたちとの別れが続く期間の中で、もう一つ、別れがあった。らなだ。

あまりにも突然のことで、私もショックを受けていた。さすがにここまで続くと、私のメンタルももう限界をとうに越していた。そんな中ではあるが、私は、自分が後悔しないように。今は、と。バカ死ぬの解散、そしてつゆの卒業に集中することにし、この件にはあまり多くを言及してこなかった。今だから、少し。この時のことを書こうと思う。

らなの1件。私はアディが好きだ。ずっと。ずっと。2018年1月9日。初めてアディを観た、あの日から。2018年1月17日。初めてアディ予約で入ったあの日から。ずっと。推しメンであるゆーかちゃが卒業した2021年5月27日。その日からもずっと。今まで。ずっと、大好きだ。グループとして。メンバー全員を含めて、すでに卒業した推しメンだけに限らず。特別に、大好きだ。それは、今残っているメンバーも。そして、らなも。今回の件、表に出ていることしか私にはわからないし、それ以上を深堀しようとも思わないのだが、表面的な所を見る限りでは、すれ違いだったのだ、と。そう思う。人間、というものは難しいもので、人と人との関わり、というものも、非常に難しい。うまくいかないことだってある。どちらも悪かった、ともいえるし、どちらも悪くなかったよ、ともいえる。こんなお話は、その人それぞれのものの捉え方でいかようにでも変わるのだ。もう少し、どちらかが、こうしていたら、別の未来があったのかもしれない、とか。そんなことを考えることもあるのだろうけれど、そうなってしまったものは、そうなってしまったもの、なのだ。こんな経験も一つとして、各々がまた自身の先の未来に活かしていけばいい。前述したように、私は、残された側も、離れた側も、どちらも大好きだ。それは変わらない。どちらかを叩くこともしたくない。私は、どちらの敵にもならないし、味方にもならない。いや、正確にいうと、この件は、残された側と離れた側の2者にはとどまらず、それを観覧している第3者からの攻撃もあるお話だ。そこまでを踏まえて話すのなら、私は、どちらの味方でもある。らなについては、まだ、若い。と、私は思っている。実年齢的にも。すごく純粋な感性も持っているというのも今回の件でわかった。だからこそ、私の大好きなグループや大好きな人達、らなが共に活動してきた人達のことを嫌いになってしまったことは仕方ないにしても、その感情を復讐心や相手を下げるための行動には向かわせてほしくなく、自身が前向きに進める方向にシフトしていってくれたら嬉しいな、と、個人的には思っている。復讐心や相手を下げるためにうまれる行動。体裁上は、他の〇〇のために、というものがあったとしても、自身にその気がなかったとしても、自分が感情のままに今している行動が、予期せぬ大切な人達をも巻き込んで傷つけてしまっていることがないか、というのを客観的に冷静に見られるようになると、自身の感情だけでなく、他の周りの人達の気持ちも考えられるようになると、いいな、と思う。まだ、若い。これからだな、って思っている。結果として、そういった行動は、どうしてもあなた自身をも周りから悪く見られてしまうから。これから、ね。自分の首をしめてより生きづらくなりませんように。彼女にとって、プラスになっていく未来でありますように。そう願っています。今も。(そんなことを言っている私も、昔はそんなんだったからさ。え、、今も?、、、笑。こんな大人にはならないでね、ということにしておきます。)

アディメンに関しては、今回の件で、露見した部分もあるけれど、正味、今まで表には出していなかった部分で。これは私の個人的な考え、意見、価値観のお話なので、そうなんや、くらいに見てほしいのだが、アイドル、偶像、という職業は、どうしてもネガティブな部分を言葉として表に出せない職業である、と思っている。しかしながら、その職業をしている実態は"人間"であり。もちろん、その職業のネーム(本名の方もいるが)を飾っている間は、偶像であり続けなければいけないが、そうでないその人自身の時間もあるわけだ。そこのすみ分けや線引きは人によって違う、とは思うが、プライベートな時間も含めて、全部、"偶像"としてのネームを飾ったまま生き続けている人、というのは、ほとんど0に近しいくらい、いないのではなかろうか、と思っている。"偶像"ではないプライベートな時間は、もちろん"人間"であり、それは私達客側と同じなわけで、ネガティブ感情が生まれることもあれば、ネガティブな行動が出ることもある、人に対して合う合わないもあるだろうし、人としての"本音"がそこにはあるだろう。全てが世間一般的に"正しい"、"良し"とされることを行えるわけでもないし、でもだからこそ、"人間"であり、人間味があるんだ。誰だって完璧な"善"にはなれやしない。極稀に、プライベートの時間までもを完全に"偶像"として過ごしている人がいるのかもしれない。(私はそんな人を知らないが)。それが一部の人からは称賛されるのかもしれないが、全ての時間を"偶像"として過ごしていることは、その人自身の"人間"としての人生を、もう生きていないのと同義であり、それが正しいのかと言われると、私は頭を傾けてしまうとこである。(それが救いとなる人もいるのだろうから、一概には言えない)。そんな"人間"としてのプライベート時間でのやりとり等が今回露見したわけで。これまで表に出していなかった部分が出てしまったわけだ。ここも人によって考え方が違うのだろう。だから、あくまで私はこう考えるよ、というお話ではあるが、本人たちが"偶像"としては出していなかった一面。"人間"としての部分がでてきたわけだが、"人間"として過ごす客側のこちらも、そんな完璧な"善"である人はおらず、誰かの悪口を言うこともあれば、合わない誰かもいたり、悪態をつくことだってある。これは、"人間"として過ごしている同士のお話であるのだから、自分を棚にあげて、"人間"としてのその人を否定することはできないよね。というのが私の考え方。その、表に出てきたことに対して、許容をする、という表現も違くて、私の中では、「そうだよね、だって、人だもん。」という感覚の方が近かった。対、人として、"偶像"であるその人ではなく、その先にいる、対"人間"、その人自身のことを人として認めてやれることができるか否か、の話なんだと思う。これは、そういうビジネスではあるから、仕方ないとは思うが、自分が普段好きで見ている"偶像"としてのその人だけを追い求めて、その先にある、その人自身を認めてやれなかったり、好きな"偶像"のために、本来のその人自身を否定してしまうのは、なんだか悲しいな、って少し思ったりもする。それって、なんだか、客側は沢山偶像に救われているのに、その人自身は救われないよね。まあ、そんな話は置いといて、実際のとこは、そんな、"偶像"と"人間"を分けた考え方をしている人ってあまりおらず、その2つが混在している人が多いのだと思う。だからいろんな意見が出てしまうんだね。そう思う。それに、前述したように、考え方は人それぞれだから。

そう。だから、すごく沢山の意見、主に、喜怒哀楽の怒と哀の部分が、沢山TL上に見受けられたね。私と近しい人から遠い人まで。沢山の言葉が目に入ったよ。その中には感情が強いものも結構沢山あって。とげとげしいものも、沢山あった。実際に起きてしまったことへの悲しみと、そうか、らながいるアディはもう観れないのか、という悲しみもありつつも、私は、私の大好きなAdFicTioNに関することで、そんな沢山の人の感情がTL上に言葉として溢れていることが何よりも悲しかったかもしれない。正直、見ていられなかった。アディメンは、基本的に陽キャ寄りのメンバーが多い気がするが、陽の成分が多いとはいえ、陰がないわけではないと思うんだ。落ち込むこともあれば、悲しみを感じることもあれば、不安を感じることもあれば、恐れを感じることもあれば、怒りも感じることもあるだろう。人なので。その、人としての感情を度外視してみることは、私には無理やった。

正直、人が何をどう感じているかなんて、その人自身にしかわからない、と私は思っているけれど、私の中で勝手に推し量られたアディメン側の感情を考えると、少なくとも、"偶像"として実直に向き合ったことは、称賛していいことだと思っている。ステージの上に立つことを辞めなかったことも。あの状況下の中で、ステージに立つとき、フロアがこれまで見ていた景色とは変わっている可能性だってある、どんな反応があるかも見えない、そんな中でステージに立つことは普段以上に気力を消費することだと思うからさ。

 

ここまで、私は、つゆの卒業、バカ死ぬの解散、らなの脱退について書いていたけれど、この立て続いた期間について、何かに対して、こう感じた、こういう風に思った、という思考の部分は沢山書いているけれど、肝心な自身の"感情"という部分にはあまり触れていなかったね。少しここに正直に書こうと思う。

それぞれのことについての私の中の感情に触れたら、本当に文章がきりなくなってしまうし、それを全てさらけ出すことはしたくないので、あくまで、立て続いたこと、に対してフォーカスを当てて記載します。

正直、様々な思考や理性的なこと、周りへの配慮等を考えずに丸裸に言うなら、"辛かった"です。

まあ、これだけ好きなものがなくなっていくんだもの。それはそうだよね。

最後の3つ目の件があった時、あぁ、、となっていました。こういうことがあるのは、昔私が通っていた場所だけかと思っていた。けれども、ここでも、そういったのがあるのか、と。本来楽しみに行くべき場所で、こうして辛い思いをするのは、もう散々なんだよな、と。そうなってしまったのが、それがあった"瞬間"です。誰が悪いとかではないけれども、そこでもまた、私は、はたして自分がこの世界に居続けることが正解なのだろうか。という疑問を抱くようになります。今は解散や卒業のことに集中したいけれど、少し落ち着いたら、私自身の身の置き場をどうするのか、考えよう、と。そう思っていました。大好きだけれど、というやつですね。様々な感情が自分の中で渦巻いて、悲しいや寂しい、なくなりゆくものへのやるせなさ、いろんなマイナス感情が自身の中で沢山沢山ある中で、その感情を全て押し殺して、解散や卒業の日を迎えて過ごしていた、というのが本当の所です。全てにおいて、悲しかったし、寂しかった。それが私の本当の感情です。でもその感情を(少なくとも本人たちの前だけでも)押し殺したのは、私が、最後のその日を、悔いなきものにしたかったし、良き思い出として最期を終わらせたかったから。でしかなかった。でも、そんな大きな感情を無理くり押し殺していたし、Twitterにも(おそらく)出さなかったし、誰にも(たぶん)話さなかったもんだから、色々終わってすぐのタイミングで、コロナでもインフルでもなく、40度の発熱を起こしてしまいましたね。笑。結局、病院に行っても、原因不明、で。まあ、メンタルなんでしょう。メンタル部分、体に響きやすいので。

そんな感じで、体調も崩しちゃったもんだから、自分の中で、今後身の振りをどうしていくか、というところをすぐには考えられず、そのまま、仕事に追われ、なあなあと過ごしたのが、4月。

 

5月。ようやっとここで話がもとに戻りますね。笑。

メンタルがぶれやすく、普段だったら楽しい予定を敷き詰めて何かを考える時間をなくす、といった行動に出る時期。今年は、あえて、向き合うために、予定をほぼ入れずに過ごしてみた。結果、無事、没りました。酷かったですね、メンタルの不安定具合が。よくあんな状況で、まともに仕事をしていたな、と思います。もはや、仕事が救いだった、まである。完全に終わってました、私の中。そんな中、私に寄り添ってくれた人がいて。本当に好きだ、と思いました。それでもなお、安定にはいたらなかった、私のメンタル。だいぶお恥ずかしい所を、お見せしてしまっていたかと思います。一度、ライブハウスで物販中に泣き出してしまったこともあります。涙が止められずに。Twitterでも沢山いろんなことを書いた気がします。沢山消しもしました。自分でも、そんな自分が、すごく嫌だった。です。音楽を聴く量が格段に増えたのも、この時期からです。普段は電車内での移動中のみとかだったはずなのに、今では1日中のように隙あらば聴くようになりました。もともとメンタルが不安定になる時期、というのはわかっていて、そんな時の私のマインドは「大丈夫、一時的なものだから。今だけなので、時が経てば、なんてことない全然平気な日が来る。それまでの間だけのことだから、大丈夫だよ、私は。」というのが私のマインド。雨が降り続けていてもいずれは晴れ間が訪れる日もあるし、晴れが続いていても、雨雲が見え始めどしゃぶりになる日もある。人生なんてそんなもんで、長い人生の中でそんなことの繰り返し。もう何度だって皆してきただろう。だから、どれだけ落ちている日も、私は、大丈夫だよって。そう考えている。実際、大丈夫だった。けれど、普段していたごまかしをしなかったからか、今回は自分が想定していたよりも、雨が降り続ける期間が長かったな、と。そう感じている。そして、自分の中のメンタルの不安定具合もひどかった。今までの人生でまったく、ほとんど吸ってこなかった煙草を吸う頻度も、今までの中で一番今、上がっている。自分で買ったたばこの箱の中身を全て吸い切ったのも初めてだし、また新しく煙草をかったのも。今までではなかったこと。そんなことがありながら、ふと、自分の中で気付いてしまった。ごまかすことをやめたことで、気付いてしまった。私の中の問題や抱えているものは、何一つ解決や解消への道に向かっていなかったのだ、と。この世界に浸かって過ごすことは、とても楽しく楽で、居心地がいい。だけれども、それは、その瞬間瞬間での救いにすぎなくて、自分を維持するための一時的な療法にすぎなくて。それを継続して自分に投与していたから、今までこうして過ごしてこれていただけであって、根本的な解決には何も至っていなかったのだ、と。やはり、結局は、自分自身で問題にきちんと向き合っていく時間をとらなければいけないのだ、と。死ぬまでずっと浸かり続けるのも一つの人生ではあると思うが、私はそれを望まない。ある意味非現実的である世界から、少しは身を置いて、自分も全ての現実にきちんと向き合っていかなければな、と。自分自身に荒治療を施し始めました。それが5月。もう年齢が年齢であるのもあるが、私にも苦しくとも少しは向き合っていけるパワーができたのだろう。メンタルぶれぶれになりながらも、向き合っていた。

 

6月。そんな自分に向き合いながらも、ようやっと始めた婚活。一部の方にはお話していたものの、Twitterでもほとんどこのことは書いていなかったと思う。ちゃっかりと始めていました。いろんな方とやりとりをし、いろんな方とお会いしていく中で、今までこの界隈以外の人で関わる人と言ったら、職場の人とプライベートな友達、くらいだったのですが、この界隈以外で関わる人が格段に増えました。ここでやっと、③のお話に繋がるわけです。

いろんな人たちと接していて、皆さん、とても、感覚が"まとも"。ちゃんとしている人が多く、たぶんきっと、それが世間一般的には当たり前、なんだと思う。この界隈にいると、どうも感覚がバグることに気付きました。

冒頭の方に書いたように、みな、何かしらを抱えていたりするけれど、本来優先すべきことを蔑ろにし、非現実的な世界にのめりこんでいる、優先順位がおかしくなっている。そんな人達も沢山みます。私もそのうちのひとりだったのかもしれない。なんだか、そういったのも、嫌になってきてしまった。だから、距離を置きたくなった。正確にいうと、そういった人たちが嫌なわけではなく、またそこに浸かっていると、たいして強くもない自分自身がまたそこに引きずり戻されてしまうような気がして、それが怖くなった。みんな、どこかで、何か欠けている人が多く。でも、欠けてはいけないところまでもを、欠けさせたくはないな(あくまで私は)、と。そう思ったのがひとつ。

それで、ある人と、いろんな話をする中で、あぁー。と。いらないな、と。それでやめることにしました。Twitterを。皆きっとどこかではわかっているんだと思う。自分自身が抱えているものと、それに向き合えていないことと。本当はこうでなきゃいけないよなぁ、、と思いながらも、そういれない自分も。どこかでけじめをつけなければいけない、とも言わない。自分の人生は自分で決めるもの。でも、自分が、こうしなきゃだよなぁ、、と思うのなら、それは自分の中で、タイミングは自分のタイミングとして、どこかではけじめをつけなければいけないし、どこかでは向き合っていかなければいけない。私はそれが、今、であった、というお話なんだね。なかなか力のいることで、パワーを使うことだと思う。だから、その原動力が蓄積された時に。

 

完全にこの界隈から去ることも一つの手だとは思いました。そんなことを考えたことも何度かあります。

実際そうした方がいろいろと楽なんでしょう。だけどそれをするには、あまりにも、私はこの世界に浸かりすぎたし、あまりにも私はこの世界に思い入れと大切な人達や仲間ができてしまった。お世話になった方々も沢山いる。それを手放すのは、私の中の人道的に違う、と感じる部分もあり。私は、皆のことを嫌いになったわけでもないからね。笑。だから、距離を置く、という選択になりました。

 

実際、6月あたりから、私はプライベートの時間も多く取るようになっています。別の趣味を作ろうとしてみたり、旧友にあってみたり、婚活もそうだけれど、この界隈以外の人と接する時間も増えました。今までとバランス、比率が変わってきています。それは、意図的にしていることです。私は、現実の世界にも、きちんと向き合い始めました。

 

Twitterの更新、復活し始めたら、ルール決めをしたとはいえ、また格段に増えてしまったね。バランスをとらないと、いけないね。私はどちらかというと、自己コントロールが苦手な部類です。おそらく人並以上に努力が必要になります。これまでも、そうでした。今回もきっとそうなんでしょう。最初から発言通りに完璧であることは望まないでください。徐々に私の中で自身と闘いながら整えていきます。

 

さて、これでやっとTwitterの更新に関することのお話が終わりましたね。

ここまでで、もうこの記事は1万字を越しています。笑っちゃうね。笑。私の中で過去最高記録だと思います。

でも、もう少しだけ、今度は別の話を、続けさせてくださいね。(もはや別記事にしろよと言われても仕方がないかもしれない)

 

タイトルにある、20240720。この日は撮影会でした。場所はお台場。

撮影会自体も楽しませてもらいましたが、終わった後も、どうせなら、と、その場を楽しませてもらいました。

景色の写真を撮るなどしました。

前々から思っていたのですが、小さい頃によく見ていたてんとう虫やかたつむりは、大人になってからというもの、めっきり見なくなりました。小さな頃より身長も高くなったことで目線が変わり、そういった小さな生物に気付かなくなったのか、はたまた母数自体も減っているのか。きっと、そのどちらも、なのかもしれない。そんなことに気付いた時、私の中の日常の世界に毎年のようにありふれていたものが、気付いたらなくなってきていたのだな、と思い、どこか寂しいような、切ないような、その失われゆく感性に悲しさを感じました。

時代も変われば街並みも変わり、私たち自身の感性だって変わる。些細なことへの気付きや好奇心も失われゆくのかもしれない。そう思ったら、今見ているこの景色も、それを見ることで何かを感じる今の私の中の感性も。大事に思っておかないといけないのかもしれない、ずっと続くものではないのかもしれない、と思いました。

景色の写真を撮りながら、私の中で今感じた感性を残しておこうと思った。

 

以下は写真たち。





シルバニア。えまきゅん、好きなやつじゃん。って思った。





ワンピースのこの絵、バチくそにかっこいいやん!って思った。





モザイクアートのジグソーパズル。いろんな瞬間が切り取られた絵の集合体から成り立つ大きな絵。というのが好きだが、その瞬間瞬間が1つのピースにそれぞれ収められていて、それを繋ぎ合わせると出来上がる、というのも、作り込みによっては意味合い深い物になり、とてもいいなって思った。




絵が好きだった。







雲や鳥、色等があるから、空には表情ができるんだ、と、思った。同じ空を見上げても、その時のその人の心情によって見え方はまた変わってくるのだろう。この日の私から見えていた空は、こんな空だった



肉眼で見た海は綺麗ではなかったが、カメラ越しに海を見ていると、さわさわとしていて、どこか落ち着いた



夕焼けも綺麗だし、夕焼けを反射する海も綺麗だし、空に1羽飛ぶ鳥もよかった。一日の終わりの始まりを告げるようなこの景色はいつの時代もちょっとの寂しさとちょっとの切なさを感じさせる。ぼーっと静かに眺めてしまうようなこの景色に惹かれてしまうのは、何故なのでしょうか。エモいとか青春とかいう一言に片付けてしまうにはもったいないくらいの深みが、もう少しこの瞬間と景色にはあると思った。




一輪で咲く花がいくつかあった。同じ種類の花と言えど、花それぞれで表情が違うのだな、と思った。その中で一番気に入ったのが、これ。この小さなひまわりみたいな花。一輪で周りに仲間もおらず咲いているのに、花が笑っているな、と思った。だから気に入った。



薄紫色がきれいだと思った(私が好きなタイプの色味)。せっかくなら、と、場所がわかるようにふじてれびさんをバッグに写るように撮った。実物大としてはふじてれびさんより遥かに小さなこの花も、遠近法を駆使すれば、こんなに大きく見えるんだね。



普段何気なく乗ってる電車も、その中の光ひとつひとつが、こうして夜の街に溶け込むと、綺麗な景色の1つとしてちゃんと成り立つんだなって思った。


夜景はいつだって好き。きらきらしてて綺麗で、わくわくするから。


こんな何気ない日でも、月がオレンジな日はあるんだね。



1日いろいろと過ごして、これだから私は皆とばいばいはできない、って思った。普段この界隈で関わっている人達の一人一人が、私がこの界隈から離れられない理由。

おわり。