2月27日付日経新聞の夕刊の記事を読んで、昨年のクライストチャーチ地震の復興が出来ていないという事と保険会社が保険金支払いで倒産するというニュースが伝えられました。
先週、NHKで東日本大震災で保険会社から地震保険の支払が認められないケースがあるという番組を見て、日本の場合はあれやこれやと支払条件があって、保険金が支払われないという事実が報道されました。同時に、保険会社は倒産しない仕組みができているのが明らかになりました。
東日本大震災という非日常的な出来事によって、日本の政治や政府は最早対応が不可能であることを如実に知らされたのですが、民間企業に於いてもさえ同様であることを知らされたような気がしました。
日本の国力が円高や財政悪化でどんどん沈没して中で、沈みゆく遠因とも思える旧態然の仕組みが垣間見えた様な気がしました。
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3月9日付日経新聞夕刊で再びクライストチャーチ大規模地震による在住日本人の情報が記事として紹介されていました。
リトルトンという場所でブドウ園を経営している中年の夫婦は、ブドウ栽培を始めて5年今年ようやく豊作になりそうな期待があり、今更帰るわけにもいかないということでした。
2人目は、ワイパラのブドウ園に働く中年男性は住宅が液状化で住めなくなって帰国することにしたということでした。3人目はラジオ局勤務の女性で、地元ラジオ局が立ち入り禁止区域で職場に行けず就労ビザが失効してしまうので帰国せざるを得ないとのことでした。
カンタベリー日本人会の会長さんの言「不景気で日本からの観光客が減り、在住日本人の帰国が増えた。地震が拍車をかけているのではないか」と懸念しているとのこと。
 
この記事を読んでブドウ園を経営している日本人がいるのを知りました。ニュージーランドのワインは有名なので経営者はてっきりニュージーランド人ばかりかと思っていました。テレビで紹介された番組でもワイン製造の蔵元は何れもニュージーランド人ばかりでした。
同じ日本人としては現地で頑張っている経営者を応援したいという気持ちですが、今でも余震があって子供たちが恐がっているとの紹介もありました。
 
ニュージーランド観光をした時に添乗員さんから説明されたのは、日本人の若い人がワーキングホリデイで働いている人が多いと言っていました。ツアーに同行した人からは「農作業は結構ノルマがきついという話を聞いています」という現実を語っていました。
 
今回の地震でこういう記事が出て、ニュージーランドが割合に日本人が行きやすい国なのかと認識を新たにさせられたと思います。それに結構沢山の日本人が生活しているのだというのも分かりました。
 
2月28日の日経新聞の夕刊で「日本人社会 広がる不安」という記事があり興味深く読みました。
新聞記事によればカンタベリー地方の日本人会は300世帯と紹介されていました。多くが日本人向けホテル経営や観光業に携わっているということでした。会長さんの言として「ここ数年、観光業は低調だったが、さらに落ち込まないか心配」というコメントが紹介されていました。
 
カンタベリー地方というと観光はクライストチャーチが中心なので、郊外に家を持ってクライストチャーチの観光業に携わっているのだろうと思いました。300世帯というと約1000人位がホテル経営・土産物屋・観光案内で生活しているということだろうと想像できます。
クライストチャーチはシンボルである大聖堂が修復されないと観光の目玉にはならないので、それまでは観光客は呼び込みが難しいと思います。クライストチャーチには昔ながらのLRTが有名ですが、多分これも地面の液状化で線路が浮き上がって暫くは開通しないのではないかと思いました。モナ・ベール庭園や園内の煉瓦造りの家もどうなったのか気になりました。
 
私がニュージーランドを訪問したのは2年も前だったのですが、その時もクライストチャーチやクイーンズタウンの日本人相手の土産物屋は閑散とした様子でした。その頃も景気は低迷していたので、年金生活の老人でも支出が気になって海外旅行をする人が少なくなっている時だと感じました。
日本人観光客向けの土産物屋やミルフォードトラックのハイキングで訪れた山小屋で働いていたのは、若い日本人女性ばかりだったので、給料は安くても生活していけるのかなと思いました。
 
今回の地震で観光に大きな影響があるのはクライストチャーチ近辺だけで、その他の雄大な自然は変わらず見られるのでニュージーランド観光の価値は全く落ちていないと思います。今後クライストチャーチの日本人向け観光で生計を立てている人たちが何処まで耐えて現地に残れるのか気になります。
 
先日テレビのニュースか解説かは忘れましたが、ニュージーランドの入国検査でバナナを持ち込んだ米国系らしい男性が女性の食品検査官から1万円近い金額を請求されるシーンがありました。面白かったのは「支払いは現金それともクレジット」といわれた場面で男性は「こんなバナナ1本で金を取るのか」と食い下がっていました。違反の支払いにクレジットカードが使えるというのはなんとも便利だと思って見ていました。
 
私が昨年ニュージーランドに行った時は添乗員の方がニュージーランドに詳しい方だったので、そういう生物を持ち込まないように事前に指導がありましたので、検査の時も持参した飴をリュックサックから取り出して見せただけで通過できました。
この時の様子は、このブログの最初の「クライストチャーチ空港に到着」という項目で説明しております。
 
この時のテレビ放映では同時に靴の裏検査の様子も放映していました。全く同じ検査を私も受けましたが、靴の裏を見せただけで簡単に通過しました。靴が登山靴だったのですが、添乗員から事前に靴の底もきれいにしておきなさいと指導されていたので、そういう事前の準備が出来ていたのです。
 
かようにニュージーランドでは外国からの動植物の持込を厳しく規制して、観光を保全するという姿勢には十分に賛同できると思います。
何事にも筋を通すこと難しくなった日本の昨今状況の中で生活をしていると、こういう国の規制が驚きというよりも共感を覚えました。
 
 

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10月30日(金)東京タワーでニュージーランドのラグビーの紹介と観光案内を兼ねてイベントが開かれていましたので、仕事の合間に立ち寄りました。
本当はミルフォードサウンドとかミルフォードトラックが紹介されるという新聞記事を読んだので行く気になったのすが、実際はラグビーボールの形をしたパビリオンの内側に360度画面でほんの数秒しかそういう場面は現れませんでしたので少しがっかりしました。
パビリオン内の映像紹介は、見る人の視線が土の面と同じ位置で撮影したものを見せるという凝った方法でしたので、内容よりも見せ方に感心して10分ほどの紹介画面を見て外にでました。

がっかりしながら外に出るとマオリ族の踊りが行われていたので、その様子を手持ちのカメラで撮影しました。
マオリ族の踊りはニュージーランドに行った時は見ていませんでしたので、再び旅行の記憶を巻きもどしながら踊りを見ていました。
クイーンズタウンのレストランで行われていた時マオリ族の勇壮な調子とは違って優雅なものでした。
踊りが終わると、踊っていた女性の写真を撮ると、一人が私のカメラでもう一人のマオリ族の女性とのツーショットを撮影してくれるというまことにサービス精神の行き届いたものでした。
彼らも踊りが終わると、次の踊りまでも時間があり手持無沙汰のようでしたので、そういう時間的な余裕もあってそういう対応をしてくれたのかなと思いました。

ニュージーランド旅行の記憶を思い起こすつもりで行ったのが、さらに思い出を重ねるマオリ族の踊りを見て感激しながら、東京タワーの坂を下って増上寺の方に歩いていきました。

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その一)現地案内人
ルートバーントラックは現地観光会社の説明員が日本人女性1名を含めて4名もつきました。英語の説明でしたが添乗員Hさんの助けもあって英語の説明も何とか分かったということでした。そういう人数的な意味では満足のいくものでした。又、説明員全員の人柄も好印象を与えましたので、一緒に歩いていても疲れませんでした。

その二)
ルートバーントラックはミルフォードトラックと違って山道なので平坦ではない分飽きがきませんでした。高低差百メートルも上がるわけでないのですが少し疲れたというのが印象です。尤も私の場合は十キロの荷物を背負っていますのでそういうハンディもありましたが。
山道は直ぐに川沿いの道になりましたので、その光景は日本の何処かの山にでも来たのかと錯覚しそうなものでした。木は南極ぶなやシダが生えていますので少しの違いはありましたが。それに加えて川の色が透明で青色に見えるのが日本の山に流れる川との違いでしょうか。峠でも木が邪魔して眺望が望めなくて、木々の間から先が望めるというようなものでした。
このトラックも山小屋に宿泊しながら歩くと山の上に行って眺望の良さそうな場所もあるらしいのですが、日帰りツァーでは半日も歩けばへとへとになるという様な具合でしたので、こんなもので満足せざるを得ないのかと感じました。

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その一)
ミルフォードトラックのハイキングは旅行案内書でも第一に取り上げているような有名なハイキングコースです。ニュージーランドに行く前にイメージを上げる為に雑誌とかウェブとか探しましたが、写真の枚数が少なく、結局現地に行くまでにどんな場所かイメージが作れませんでした。
「世界一美しい散歩道」といううたい文句は少々違うのかなと思いました。日本では見られない苔むしたぶな林の中を歩く道ですが、これも一日中歩くというのは実際つらいと感じたわけです。
マウントクックみたいな山を望みながら歩くのであれば爽快感もあるのでしょうか、林の中ばかり歩くとと、わざわざニュージーランドまで来る必要があるのかと思えてしまうのでした。
この林の様子はオーストリアの南の方でも同じようなものだと想像できましたので、林の中のトレッキングであればタスマニアには行かなくても済みそうだと思っています。

その二)
私の目的が写真撮影ということだったので、そういう目的からすればハイキングコースのイメージが合わなかったということでした。普通に歩く事が目的の人には面白いコースだったかもしれません。
ツァーの最後に添乗員のHさんが「再びニュージーランドに来たいですか?」とツァーメンバーに質問したら誰も手を上げなかったので、Hさんは少々落胆しているようでした。
それはミルフォードトラックやルートバーントラックは殆ど林の中の歩きなので、ツァーメンバーはそういう場所なら二度は結構ということだったのだろうと想像しています。
私ももう少し山が見られるツァーであれば再び来たいという気持ちでしたので、もし次回ニュージーランドに来るのなら氷河観光を取り入れたツァーにしようと思っています。

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 飛行機はオークランドを午前九時に離陸したのである。昼間の移動なので眠くなるということは無かったのであるが、時々旅行の疲れからかふっと深い眠りに誘われることもあった。それに体調も悪くなかったので明日から会社に行かなくてはならないが疲労困憊という状態では無かったので安心したのである。このツァーで会社勤めをしている人は私だけなので「明日から出勤です」と言ってもツァーメンバーは無反応だった。私以外は、翌日以降は休養という人ばかりだったのだ。

 飛行機の座席は、どういう縁か分からないが私は窓側三列の通路側に座ったのであるが、隣はおばさん二人組のSさんで窓際はDさんであった。十人の団体の輩と一緒にならなかったのが幸いだと思ってほっとした。通路を挟んで私の隣に座っていた十人の団体の一組の夫婦の旦那は、飛行中に席の上に立って前方を見晴らしていたのには驚いた。
 Sさんはもうツァーも最後で少しは打ち解けて何でも言えると思ったのか、この十人の団体を「おかしな連中だ」と言ってこっぴどく批判をしていた。それで私が「こういう連中は生きているだけ税金の無駄遣いになりますね。早く死んだ方が日本のためになるってものじゃありませんか」と言ったらSさんはさんは賛同したのであった。
 席に座ってからSさんが映画を見たいのでリモコンを操作してほしいと言われたので、日本語で見られるようにセットしたのだが、映画そのものが面白くなくて直ぐに見るのを止めてしまったのである。一方Dさんはごそごそと操作しながらも何とか画面を見られるようにしていたので、この二人の性格の違いがはっきり分かったのである。
 一列後ろの席の通路側に一人だけ皺だらけの年配の御婆さんが一人で座っていた。飛行機が飛び始めてから暫くすると、窓際と真ん中の席の肘掛を上げて、三つの座席で横になっていた。ファーストクラスよりも快適だったかもしれないが、私はてっきりその容貌からして棺桶に入る練習でもしているのかと思ったのであった。

 飛行機は離陸すると直ぐに水のサービスがあったので、空港で空にしたペットボトルを差し出して満タンにしてもらったのである。水には氷とレモンがいれてあるものだったのでおいしかった。このペットボトルの水は成田から池袋の特急電車の中で飲もうと思って、機内では半分位は残したのである。
 Hさんの話ではニュージーランド航空の機内食は旅行雑誌の評価でも上位にありますと説明していた通りに、二回の機内食はまあまあ食べられる味であった。飲み物も御代わり自由というので、私の一列前に座っていたBさんはワインを飲み続けていたのである。それ程好きならばお土産にワインを山ほど買えばいいのにと思ったのだが買ってはいないようである。Bさんはツァー中もワインを飲んでいたが、酒が好きというには少々卑しいような飲み方に抵抗を覚えたのである。
 一方お隣に座ったSさんは機内食で出たプラスチック製のナイフ・フォーク・スプーンを持って帰ると言うのである。「主婦はこういう風にしてやりくりしなくていけません」と独り言を言っていた。それならば私の使っていないものを「持ち帰りますか」と聞いたら、流石にそこまではやりすぎかなというので「結構です」と断ってきたのであった。隣のDさんに「持ち帰りますか」と聞いたら「息子に怒られますから」と言って断ったのであった。私も後で考えれば持ち帰れば次の旅行用にできたと思ったのだ。日本人の多いエコノミークラスではこういう人がいるので、段々とこの食事用ナイフやスプーンなんかが減っていくのだろうと想像したのである。
 機内では日本へ帰国するというのでニュージーランドのお土産品が販売された。Dさんは申込書を書いていたので「何をお買いになったのですか」と聞いたら「ウォッカですよ、こういうものも面白いかなと思ってね」と言ったので少しおどろいた。旅行中も散々ワインや麦酒を飲んでいたので酒好きだろうとは思ったのだが、こういう話を聞くと相当にいける口と思ったのである。

 エコノミークラスには日本人の女性二人とニュージーランド人の男二人と女一人の客室乗務員がいて、このお土産は日本語が分かる女性二人が売っていたのである。機内販売はカタログを配ってから注文を取りに来たが、カタログの表紙のミルフォード・サウンドの写真がきれいでお土産を買うよりも私はこのカタログをお土産にしたのであった。
 この日は水曜日なのに機内に置いてある日本の新聞は月曜日であった。新聞社の捨てる新聞をこういう場所に配っているのかと思ったのであった。Sさんは新聞を読んでくしゃくしゃに折っていたのだが、私は几帳面にきちんと折りたたんでいたのに気づいて「私は家では机に広げて読んでいますからね」と言い訳言ってから「あんたとは性格がちがう様で、一緒に暮らしたら喧嘩になりますね」と言ってから、席を替わりますといって前の空いている席に移動したのであった。確かに三席の真ん中の席は座りづらいと思われた。両端の人にとっては座席の幅は狭いのだが、真ん中の人がいなくなると広くなって楽になるのであった。

 機内では最初は新聞を読んだり音楽を聴いたりしていたが、十一時間も同じ場所に座っていると流石に飽きがきて、最後はずっと飛行機が成田に着くルートを表示する飛行中の画面ばかり眺めて過ごしたのである。
飛行機が成田に近くなってから、Hさんがツァーのアンケート用紙を回収に回って来た。十人の団体の中におばさんの二人連れがいて、Hさんは立たされたままこの二人の座る座席の前で延々と話の相手をさせられていたのである。相手を気遣うことができないおばさんであった。三十分以上もおばさんとの話でその場で足止めをくらっていたので、私はDさんのアンケート用紙をもってその駄弁をするおばさんの席に行ってHさんに手渡したのである。それから暫くして駄弁のおばさんから開放されたHさんが私とDさんの席にきて「お帰りはお気をつけてお帰りください」と言ったのである。DさんはHさんが秋田出身というので「次回のツァーでは何か民謡でも唄ってください」と言うとHさんは「母から何か教えてもらいますか・・・」と言って笑ったのであった。

 午後四時半に成田空港に到着した。出発時同じ場所に飛行機が到着したので、再び不便なシャトルに乗って第二ターミナルに移動したのである。第二ターミナルビルに到着してから荷物を受け取るターンテーブルのある場所に行ってスーツケースが出て来るのを待ったのだが、案外早く出てきて税関に向うおうとしたら、ターンテーブルの近くにいたHさんが私を見て「早く出ましたね。パスポートと申告用紙を出してください」と言って最後まで注意して見送ってくれたのである。

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 この日は空港に午前七時までに行かなくてはならないというので朝食はホテルでは出なかった。空港でおにぎりが配られたのであった。
 Kさんの運転するバスが朝六時には到着して、部屋の鍵は誰もいないフロントに置いて返したのである。バスに荷物を積み込んで席に座って見ていると、十人の団体のうちの一人がバスに乗らないで港の方へふらふらと歩き出していたのであった。その人のリュックサックを見ると背中にマジックインキで大きな字で名前が書いてあったのだ、自分の名前を忘れないようにするためかと思えた。

 現地観光会社の人らしい中年女性のAさんという人がバスに乗り込んで来て、バスは空港に向かって出発した。Aさんは空港でのおにぎりを食べる場所とかお土産の案内をしたのである。最後の日にこういう人が出てくるとどういう役割なのか不明であったが、飛行機のチケットを手配している業者かも知れないと思った。バスの中では朝食のおにぎりを食べる店の紹介とお約束の割引券を渡されたのであった。ニュージーランド観光では買い物をする度に割引券が出てくるのである。日本人向けのお土産の売上が落ちているのだろうとしか考えられなかった。
 バスが市内を走っていると、朝早いにもかかわらず車は結構走っていた。その車の流れに沿って空港に向って走っていると左側に川が見えて、川は明けたばかりの太陽に輝いていた。ホテルから空港までは三十分ほどで到着して搭乗手続きをした。
 飛行機のチェックインカウンターでスーツケースを計量器に乗せると、昨晩一部荷物をリュックサックに移し変えたので、スーツケースの重量は二キロ減って二十二キロだったのでクレームもなく、再びヘヴィというタグを付けられてベルトコンベヤーに乗せられたのであった。私はHさんには「背中が重くなりました」と言ったのである。
 航空券をもらってから朝食のでるレストランに行った。レストランは空港二階の「葉山」という店であった。店はオープンスペースで、店の前に机が並べてありそこに三個のおにぎりが入った透明なプラスチックの箱が置いてあった。ここでは何時もお馴染みのおばさん二人組のDさんとSさんと私の三人が同じテーブルに座った。
 店はレストランと言っても、出来合いのサンドイッチの他、日本人向けに色々な種類の寿司やおにぎりがカウンターに並べて売るデリであった。私はおにぎりを食べて流し込む水分が必要だと思い水を買って、飲み残した水は近くの植木のプランターに捨てて空のペットボトルをリュックサックに入れたのである。
 しかし大半の人は、この店で味噌汁を売っているというので高い値段の味噌汁を買うために列をなしたのであった。
 急ぎで歩いたせいか、食欲も無く三個のおにぎりで足りないということはなかった。店には我々ツァーメンバーの他にも、大勢の日本人が食事をしていて繁忙していた。この店ではやはり若い女性の日本人がレジを打って、注文の品を奥にいるニュージーランド人コックに伝えていたのである。日本人の年配者が多く日本語でしか話せないのでこういう忙しい店ではレジは日本人がいいだろうと思ったのであった。
 この店の朝食時間も余裕なくて食べ終わると直ぐに出て出国口に向かったのであった。ここで現地観光会社のAさんとは別れて出国審査を受けたのであった。審査を終わると搭乗口に進んだのである。

 出国審査場の先に土産物屋があった。通路右手の土産物屋で綺麗なカレンダーが売っていないかと思って入ると、Mさん夫婦が入ってきたので「何をお探しですか」と尋ねたら「小鳥を解説した本が欲しくて、ここで売っているかどうかと思いましてね」と答えたのである。私はカレンダーの売っている場所と書籍の置いてある場所を一回りして「そういう本はここにはありませんね」と残念そうにするMさんのご主人に言ったのである。ツァー途中で現地の土産物屋には日本語で植物・動物・観光について解説された本が置いてあったのだが、ここではそういうマイナーな本は置いてなかったのである。あれだけ煩く人の話に介入する割に、肝心の時には役には立たないと自らを語るようなものであった。

 この店の反対側の土産物屋では日本人の店員が大声で呼び込みをしていた。ここは日本人スタッフばかりの店で、若いしゃきしゃきした口調の女性が盛んに限定まとめ売りのチーズや燻製の鮭の商品を声高に「残り何組です」と叫んでいた。
 この店でも十人の団体のうちの一人の叔母さんが大奮闘していたのである。まとめて買うと安くなると知りながら最初は一個だけ買って支払いをした後で、追加してまとめて買ったので値段を安くして欲しいという何とも分かりにくいもので、この人がレジで支払いをめぐって揉めているので、他の人が支払い出来ずに並ばされたのだ。この人の分かりにくい話に対応できた、しゃきしゃき言葉の女性店員が出てきて何とか収まったのであった。このおばさんの話しを聞いているとまるで漫才のごとく理屈がめちゃくちゃなので、この人を店員が納得させるのに苦労したという話である。
 その上、この人は鮭を買ったのだが店員が保冷用氷を入れたケースにきちんと収めたのだが、その袋を開いて他のお土産を入れようとしたので、店員が慌てて「それは止めてください」と注意した「落ち」つきであった。

 時間は十分あったので土産物屋からゆっくり歩いて搭乗口に行った。待合室の前のトイレに行こうとしたら、トイレは集合型ではなく一人用のものであったので人が並んで待っていた。障害者でも入れる大きなものなのだが、こういう場所にしては不便なものなので不思議に思ったのである。
 私が待合室で座ってから広い場所を眺めると、十人の団体はやはり一所に固まって座っていたが、その中でテカポ湖星座ツァー事件以後十人との距離を置いていた二人はその十人の団体から離れて私の直ぐ前の席に座った。私の横にはMさん夫妻が来たので、時間のかかるトイレに行っている間その荷物の見張り番をしたのである。
 Mさんはトイレから帰ってきて私の隣に座って「このツァーは申し込んでからキャンセル待ちだったのですがね、うまいこと取れました」と言ったのである。私も「実は私もキャンセル待ちでしたが、何時の間にか取れていると言われました」と返事をしたのである。
 私が申し込んだ時、このツァーは二十人募集のところ二十三人が応募していたのである。その時はMさん夫妻と私がキャンセル待ちであったというのが分かったのであった。しかし実際は十八人のツァーになったという事は五人がキャンセルしたという事実がこの場で分かったのであった。
 待合室を見ていると人が多いように思えたのだが実際の飛行機の中のエコノミークラスは半分程しか埋まっていなかったのである。飛行中に席替えした人も多かった。