今日は、

うえさまのグループカウンセリングに参加しました。

 

 

うえさまのカウンセリングは

とっても温かかった。

 

 

私の気持ちを受け止めてもらえてる感じがして

とっても心がほわっとした。

 

 

リブログしたブログはグループカウンセリングのブログじゃないけど、

カウンセリングする際に心に留めておきたいことなので

これをリブログしとく(⌒∇⌒)

 


 心屋カウンセラー認定(コバマス123期)

エリージアム巣立ちコース修了
 
心屋オタクな
きみちゃんです。

写真、今日のやつをGETしたら、差し替えます

私は

悩みという悩みがあるわけではない。

 

それは

悩んでいない

悩みがないということではなく

 

ずっと漠然とした生き辛さ、

しんどさを抱えていて、

 

だけど、

「これが悩みなのです」

とはっきりと言葉に出来る「出来事」がないのだ。

 

 

なので、

漠然としてるけど強烈なしんどさを抱えつつも、

このような場ではなかなか相談出来なかった。

 

 

今回もせっかくのうえさまのカウンセリングを受けられる機会なのに

「相談事」として言葉に出来なかったので

相談出来ないなぁ、と思っていたけど、

 

誰も手を挙げないタイミングが最後の最後にやってきて、

 

言葉にならないまま、

つらつらと話し始めた。

 

 

うえさまは

ちゃんと文章化出来ない私の話を

共感しながら聞いてくれた。

 

 

訳が分からないままにしゃべっているのに

そうだったんですねー

それはしんどかったですねー

って、ちゃんと受け止めながら聞いてくれた。

 

 

こうやって受け止めながら聞いてもらえることで

こんなにも心が安心するのだと思った。

 

 

そして。

まとまらないままにつらつらと話していく中で

 

うえさまがこんなことを言ってくれた。

 


「安心ベースがないと、

人は前に進めない」


「安心安全がわからないと

自分がどう感じているのかもわからない」

 

 

私は中学生の時からずっとのどの詰まり感がある。

 

 

その喉の詰まり感のために

たくさんの「やりたいこと」を諦めてきた人生だった。

 

 

心の仕組みを知って

喉が詰まる感じがする時というのは

 

「自分の言いたいことが言えてないとき」

という「仕組み」は分かった。

 

仕組みはわかったけど、

 

そもそも私は何を感じ、

何を言いたいのかも分からないのだ。

 

 

これは

心屋に出会って自分に向き合い続けてきて

少しずつ分かることも出てきたけど、

 

でも、

喉の詰まり感がすっきりするぐらい

自分の思いが明確にわかるようになったわけではない。

 

 

ここのところ、

いろいろと自分の目の前に腹が立つ人が現れたり、

やりたいことなのかやりたくないことなのかが自分でもわからなくなったり、

怖いのか嫌なのかの感覚が自分でもわからなかったり、

 

そんなことが頻発しているので

自分でも自分に向き合わざるを得なかった。

 

 

その中で自分なりに感じたり気付いたこともあって、

その中のひとつが

 

「私には、

圧倒的に『安心する』という感覚が欠如している」


ということだった。

 

 

「安心する」ってどういうことなのかが、

そもそも体感として感じたことがなかったのだ。

(緊迫した状態で育って来たので、身体も心も常に緊張状態だった)

 

 

そこまでは

ようやく自分でも気づけるようにはなってきてたけど、

 

今日、うえさまから

「安心ベースがわからないと、

そもそも、自分が何を感じいるのかもわからないんだ」

ということを言ってもらえて、

 

そうだったのか!!

私が、自分の気持ちがわからないのも

自分がどうしたいのかがわからないのも、

嫌なのか、怖いのかもわからないのも、

 

仕方がなかったのだぁ、

ということがしみじみ感じられた。


私が悪い訳でも、おかしい訳でもなく、

仕方のないことだったのだと。

 

 


そしてうえさまは


そんなわからない自分、「嫌だ」と言えない自分を責めなくていいよ


って言ってくれた。

 

「だって、怖いんだもん」って。

 

 

 

自分では自覚がなかったけど、

嫌なことを嫌って言えない自分、

自分がどうしたいのかがわからない自分、

 

心の勉強したのに

自分を守り切れてない自分(嫌なことを嫌って言えない、やりたいことをやらせてあげられない自分)のことを


無意識で「私、全然ダメやん」って思ってたことにも気づかされた。

 

 

そして。

ここ数日の自分との向き合いの中で

だいぶ、人に頼れるようになって

助けても言えるようになってきたけど、

 

いざとなったら、

「お母さんみたいに

直前で手を離されるんじゃないか、

私を置いて、逃げ出されるんじゃないか」

という恐怖が込み上げてきて、


人に頼っていても、全然安心出来ない自分がいたりもした。

 

 

そのことについては、こんな魔法の言葉をいただけた。

 

私は、守ってもらえる人です

私は、ここにいるだけで守ってもらえる人です


助けることを求めなくても、助けてもらえる人です

助けを求めれば求めるほど、もっと助けてもらえる人です

 


これを


必死にひっくり返そうとしなくてもいい。

やわらかーーーく、ふわっと言ってればいい。

 


そんな私だなんて、と信頼出来なくてもいい。

疑っていてもいい。

 

そんな自分だと、信頼出来なくても、疑ってかかっていても、

私は助けてもらえる。

 


今までも何とかなってきたしなーーー。

 

 

…ホンマや。

ついつい、不安や恐怖の方にクローズアップしてしまいがちだけど、

今まで何とかなってきた。

何とかここまで生きてきた。

(これに関しては、ホンマに私、よく生きてきたなぁっていつも思う)

 

 

そして。

ついつい、お母さんに手を離されたことばかり、置いて逃げられたことばかりに思いを馳せてしまうけど、


そんな中でも、


私に手を差し伸べてくれた人はたくさんいたはず。

安心感を与えてくれた人はいたはず。

 

そんな人のことを思い出してみようって。

 

 

そうしたら…


確かにいた。


私のことを助けてくれた人、

何があっても手を離さないよって言ってくれた人、

私が安心しきるまで、すっと側にいるよって言い続けてくれた人、

そんなことでは見捨てないよって言ってくれた人(´TωT`)

 



うえさまの言葉で

それらの人たちのことを思い出すことが出来た。

 


そして、


今、一番私に安心感を与えてくれる存在、

「安心するって、こういうことなんだ」ということを教えてくれた存在が

超身近にいた。

 

その人たちに「ありがとう」。

 



こうやって、

安心感を与えてくれる人たちのことを思い出す。

そうやって、

少しずつ緊張感がなくなっていくと、

自分の気持ちも見えてくる。

自分がどうしたいのかも見えてくる。

 

 

今、私自身も自分と向き合う中で

どうすれば「私が」安心して、なおかつ、「楽しい」と思いながら動いていけるのか、

一つ一つ自分の中で確認しながら動いている。

自分で自分の安心材料を揃えつつ、動いて行ってる。

(動いていっているのも、「楽しい」「やってみたい」と思える時に動いている。

決して、「動かなきゃ」「やらなきゃ」で動いている訳ではない)

 

 

それもやりつつ、

既にもう「受け取っていた」安心を思い出していこう。

 

 

心がホカホカする感覚が残っているうちに

ここに記す。

 

 

うえさま、ありがとうございました✨