その続きのお話です。



心屋大好き心屋オタク
エリージアム巣立ちコース修了
コバマス123期受講中
 
ぢんさんに愛されまくってる
きみちゃんです。
六角堂にて、龍仁ブレスちゃん輝く✨


そんな気付きを
三条大橋スタバでまきちゃん阿部ちかちゃんに話すに至ったのは、


これまた、
私の思い込み、前提の話になったからだ。



私の周りは
マスター卒業生やら、起業している人が多くて、

有料メニューを持った友達に対して
どこまで友達として話していいのか、


それが分からなくなってしまって

どんどん誰にも悩みを話せなくなったり、
遊びに誘うのにも躊躇いが出てしまっている状態が長く続いている。



それは、
心屋に出会って最初の頃に


「無料で話を聞き出そうとしてくる」
といった心屋カウンセラーの投稿を立て続けに何人も読んだことも
大きく影響している。


あ、有料メニュー出してる人に
(友達であっても)話しちゃいけないんだ、
と勝手に私の脳内に強く刷り込まれてしまった。

また友達の線引きも難しいのだが。



そういう話をしていて、
最初は

友達なんだから
そういう不安も含めて話していけばいい
というような話だったり、


「どうせ私なんて」の思いがあるんじゃないか、
という話をしてたのだけど、


なんか引っかかる。



自分も有料メニューを提供するようになって、
逆の立場でもいろいろ体験して
思うところもある。



そんなことをひっくるめて考えてみた時に、


私は、

相手に対して
自分に提供するものがないと感じてしまった時に
そのような引け目のようなものを感じる傾向があるように感じた。



いわゆる、

私は何も出来ない
全然素晴らしくない、
愛されてない、


という意識は私の中であまりなくて、



「どうせ愛されてるし」も、
「どうせ素晴らしいし」も、


「そやで。私、素晴らしいで」
「愛されてるで」

って思っているので、
全然響かない。


実際に
大変おこがましいんだけど、


学生時代もその後も
割と「人気者」と言われる位置に居たり、

悩み事を相談される立場に居たり、

人を助ける立場に居たりしていたから。


自分は「そういう人だ」と思っているのだ。



ただし、

それはたまたま今まで
要求されて来たことが出来て来たからだ。


人の期待に応え、
人の求めるものを提供出来、
人の役に立ち、
人を助ける役割をこなす。


それが子どもの頃から
たまたま出来てしまって、


その役割を担い続けて来れたのだ。


これは前者(飛ばね族)であることも大きいと思う。

出来ちゃうんだもん。



だから、
出来ない自分というものは自分でも想像出来ない。
(もちろん、人の目から見たら出来てないこともたくさんあるんだろうけど、今は自分目線の話に限定する)


出来ない自分でいてはいけなかった。
何でも出来ないといけなかった。
役立つ自分で居なくてはいけなかった。


そして、

それがたまたま今までは出来てしまってきた。



だから、
出来ない自分を想像出来ないと共に、


出来ない自分が居ることがあっては
絶対にいけなかったのだ。



考えることすら恐ろし過ぎて、
出来ない自分が想像出来ないということもあったんやと思う。



「役に立っているから
私は存在していい」

「役に立たない自分は、存在してはいけない」


そう強く強く
無意識の世界で握り締めてきた私。


今までも頭では
そうなんだろうなぁ
と思っていた。



だけど、
三条大橋スタバで話していて、

それが体感として感じられるようになってきたというか。


「きみちゃんにとっての『逆をやる』って何やろうなぁ」
という話になった時に、



役に立たない自分でいること、
役に立たない自分でも存在していいと感じること、


ではあるのだけど、


役に立たない自分というもの自体が想像出来なくて、

人の役に立つことがあまりにも当然過ぎて、



いつも自分のことよりも人のこと優先、

いつも周りの様子を伺がって、
何を求められているのかを察して動き、

周りの動きに合わせて、
自分のやりたいことを封印してきた、



そんな私の「逆をやる」は、





自分の行きたいところに、
自分のやりたいタイミングで、
自分のペースで、

どんどん進んで行ったり、
立ち止まったり、
ペラペラお喋りしたり、
人の話を全然聞いてなかったり、
人の話を遮って自分の話をし出したり(笑)、

私から見たら
勝手な言動のオンパレード!!!!(笑)


なことをすることだったのだ。



それが
奇しくも出来たのが、

パンダと愉快な仲間たちと一緒にいる時にやった行動の数々。




まきちゃん、阿部ちかちゃんたちと三条大橋スタバで喋っていた時に、

「いいとこ探し」が大嫌いだ
とやたら熱量高く語る私に、


まきちゃんが

「それだけ反応するってことは、
そこにも何かありそうやな」
と。


「いいとこ探し」で出てくる言葉は、

役に立ってる私を賞賛する言葉のオンパレードのように私が感じていて、


そうじゃない私、

役に立たない私でいることを
周りからも阻害されている気がして、


それがとっても苦しかったのだ、
ということにも
話をしているうちに気付けた。



分かってるねん!!!
そんな私であるのは、
分かってるねん!!!

私にはそんなところしかないんか?!
そんな私で居ないとあかんのか?!


そんな
私自身も気づかなかった心の叫びが、


「いいとこ探しが大嫌い!!!」
という怒りとなって現れていたようだ。




そして、
多分初めて「役立たずな私」になった時…


中学校時代に学校に行けなくなった時、

パニック障害と鬱が酷くなって動けなくなった時、


母に

「こんなきみちゃんはきみちゃんじゃない!!!

元の、明るくて元気なきみちゃんに戻って!!」

と言われた記憶と
重なるのもあるのかもしれない。



あの時の絶望感、

自分でも動けなくなったこと、
学校に行けなくなったことに絶望感を持っていたのに、


さらに、
そのままの私で居てはいけない、

役立たずになった私には
寸分の価値もない、

とトドメを刺された気がして、
存在自体を否定されたと思ってしまったのかもしれない。
(でも、パニックと鬱のことは大人になってからのことなので、もっともっと過去にも同じような記憶があったんやろうなぁ)


 パンダと愉快な仲間たち♥

そんなこんなで。

神社仏閣巡りの中で
自分なりに怖いながらも飛んでいった小さなバンジーの数々と、


その後にスタバでモヤモヤについて話していったこととが

見事に繋がっていった。


なんか、上手くまとめられなかったけど、
体感を伴った気付きとして
ここに残しておく。



おしまい。