「可哀想可哀想」
って言うことは、
人を哀れんでばかりで、
可哀想な人を生み出す
ダメなことだと思ってたよ。
心屋大好き心屋オタク
エリージアム巣立ちコース修了
潜在数秘術®マスター
アロマボイジャーセラピスト、
「ある」を見るリハビリ中、
感情の垂れ流し中の
きみちゃんです。

長男が送ってくれた、炎天下の城崎温泉の写真♨
私さ、
心屋知ってから
「可哀想」
って思ったり口に出すことが
あんまりいいことだと思ってなかってんなー。
可哀想な人は居ないって言われてるし、
妖怪かわいそうを生み出さない、とか言うし。
身近にすぐに
「可哀想」
って言う人が居て。
その人も
子どもの頃から母親から
「あなたは身体が弱くて
可哀想な人だ」
と言われて育って来てたから、
自分のことを可哀想と思ってるのかなー、
とか、
それにしても、
何でもかんでも人のことを「可哀想」呼ばわりすることに、
ちょっとむーんとしてた。
可哀想な人なんて居ないのに!!、
憐れんでばかりいて、
その人がどう思ってるかなんて分からないのに、
勝手に可哀想扱いして!!!
蔑んで見ているのか?
(この辺は、私の歪んだ前提から来てますな😅)
って、
なんか知らんけど、
イライラもしてた😅
*****
だけど、
先日、ちょっと思いが変化した出来事があった。
「可哀想」の言葉と共に
涙がポロリとこぼれたのだ。
それを見た時に、
この人の「可哀想」は
憐れみ、
蔑み、
ではなく、
この人の「優しさ」なのではないか、と。
他人のことで
「可哀想」だと涙を流せる。
相手の思いに合ってるかどうかは分からないけど、
その人なりに相手の思いに共感し、
その人の心を思い、
涙する…
なんて柔らかい心なんだろう。
なんて優しい心を持っているんだろう。
私は
ついつい人の言動も
自分のモノサシで受け取って、
自分の経験値でこうに違いないと解釈してしまう。
だけど、
それは私の解釈、受け取りであって、
その人の真意はどうであるかは分からない。
私は
自分の前提、
自分の色メガネで人の言動を受け取り、
解釈しているだけなのだ。
そして、
その自分の受け取り方で受け取ったことに
怒り、
悲しみ、
悔しさを味わい、
やっぱり私は…と勝手に拗ねたりする。
それをやり続けて来た52年だった。
でも、
心屋に出会って
少しずつ
「そうじゃないかも」
「自分とは違う表現方法をしているのかも」
「自分とは違う意味合いでこの言葉を使っているのかも」
そんなことが
感じられるようになってきた。
そうして、
そんなことに気付く度に、
自分の思い込みの色メガネが外れていき、
自分の前提に気付いてハッとする。
「可哀想」という言葉に対する思い込み、
その人自身への偏った見方、
そして、
自分の握り締めた前提が
また一つ
ふわっと解けた時間だったなぁ。