人は、
自分のことを
「愛の存在」
「毒の存在」のどちらかだと
思っているらしくて。
 
 
 
「愛の存在」だと思っている人は、
 
自分が居るだけで周りも幸せになる
 
 
 
「毒の存在」だと思っている人は、
自分が居るだけで周りを傷付けている
 
 
 
…そんな風に思い込んでいるらしい!!!(´°д°`)
 
 
 
 
 
そうして、
私は自分のことを
「毒の存在」だから
周りを傷付け、
 
こんな私だから
絶対に罰せられる存在、
周りに迷惑を掛ける存在
だと思っている…らしいのだ(´°д°`)
 
 

 
ここのところのコロナ騒動もあって、
毎日
違う形で
瞬間瞬間
胸が引きちぎられるような不安と恐怖を感じている私。
 
 
 
あまりにも違う形で
でも
頻繁に胸が潰れそうに苦しくなるので、
 
 
この起きてる出来事自体は
ダミーなんだろうなぁ
 
とは思ってた。
 
 
 
そしたら、
こんなんが出てきてしまったのだ!!!(´゚д゚`)
 
 
 
「私は毒の存在」
そう思いたい。
そう思ってる方がラク。
 
 
いつもの如く、
 
えーーーーー、そんなん嫌に決まってるやーーーん!!!
って思った。
 
 
だけど、はしのんさんに
「(自分が毒だと)
他の人を毒にしなくていいから」
と言われた時に、
 
あ、そうかもしれん
って思った。
 
 
 
人が傷つくのを見るぐらいなら
自分が傷ついておこうって。
 
 
その方がラクやんって。
********
 
傷つくのを見るのはイヤ。
 
 
それもやっぱり
元を正せばお母さん。
 
 
 
お母さんが悲しむのが辛かった。
お母さんが傷つくのが嫌だった。
 
 
怖いのは
コロナでも他の病気になることでもない。
 
誰かが傷つくのが怖かったみたいだ。
******
 
「私は毒の存在です」
の反対は
 
「私は愛の存在です」
 
 
 
それらの魔法の言葉も言ってみる。
 
私は愛の存在です
私は愛を与えられる人です
いるだけで勝手にみんなが癒やされています
 
 
 
・・・言える。
言えるよ。
 
そう、私はいつも
どんな言葉も「ザワザワ」せずに言えるのだ。
 
 
はしのんさんに
「言ってみてどう?」
と聞かれる。
 
 
「うーーーーん、
上滑りしてる感じがします
って言ったら、
 
 
「入れたくないんだね」
「スルーしたいんだね」
って言われちゃった^^;
 
 
「ザワザワ」するのは、
自分の中にあるけど、
認められないこと。
 
 
私はそもそも
自分の中に入れることすら
したくないようだ😅
 

 
「私は愛の存在です」
 
私が愛であること、
愛の存在であること、
私がいるだけでいい存在であること、
 
それを頑なに受け入れようとしていないみたい(汗)
******
 
私は
人の感情とかを自分のことのように受け止めてしまうところがある。
 
それがしんどくもあり、
被害者意識を生み出したりもしてる。
(私だったら、その言葉を使う時は悪意を持って使うから、相手も悪意を持って言っているに違いない!!ハラスメントだ!!ってやってた(汗)
 
 
でも、
人の感情は人のもの、
人の人生はその人のもの、
私のものではない。
 
 
だから、
相手の強さを信じ、
放って見守る自分の強さを持つ。
 
 
それが私に必要なこと。
 
 
人(お母さん)が傷ついても放っておく。
人(お母さん)が傷つくのを見るのが嫌だから、
自分が毒の存在となって
自分が傷ついている。
 
 
他の人が傷つくのを見なくていいように、
自分を苦しさでいっぱいいっぱいにしている…らしい( ̄▽ ̄;)
 
 
 
まずは、
身近でない人(テレビの人)とかから
傷つくのを放っておく練習をする。
 
 
誰かが傷ついても
誰かが死んでしまっても
 
それは
私のせいじゃない。
 
 
毒があろうとなかろうと、
周りの人は
勝手に幸せになるし、
勝手に傷つくのだ。
 
******
 
さて、
最後にはしのんさんから問い掛けが。
 
 
「『愛の存在と思いたくない』
『毒の存在と思いたい』
そう思いたいメリットはなんだろう」
 
 
そう思っていることで
私の中にメリットが生まれる。
 
メリットがあるから、
見なくていいものがあるのだそうだ。
 
 
「毒の存在」をやり続けるメリットはなんだろう。
 
「毒の存在」をやることで
生きてる感じがするのはなんでだろう。
 
何が楽しくて
何が嬉しくて
「毒の存在」として私は存在しようとしてるんだろう。
 
*******
その場で即答は出来なかった。
 
 
でも、
それから考えてみた。
 
 
 
「愛の存在」
「いるだけで勝手にみんなが癒やされている」
 
この言葉に対して
拒絶反応はない
 
 
むしろ、
 
どこかで味わったような感覚はある。
そんなふうに言われてきた記憶もある。
 
 
だから、
この感覚は私の中で皆無ではないのだ。
 
 
それなのに、
今の私は、
実際には「毒の存在」として
存在するだけで周りを傷つける
と思いこんで、
 
そのことで悩み苦しむ現実を引き寄せている。
 
 
 
ふと頭に浮かんだのが、
本当に小さな小さな頃の私。
 
きっと「愛の存在」だった頃の私。
 
 
 
私は「愛の存在」なはずなのに
お母さんは全然幸せそうじゃない。
お母さんが困っている。
 
 
あー、
私、愛の存在なのに
お母さんを笑わせない。
お母さんを幸せに出来てない。
 
 
愛の存在なのに、出来ない。
 
 
そっっか、
「毒の存在」だったら
例えお母さんが幸せそうじゃなかったとしても
例えお母さんが笑ってなくても

「愛の存在」でお母さんを笑顔に出来ない無力感を感じなくて済む。
 
 
だって、
「毒」なんだもん。
 

「毒」なんだから、
お母さんを幸せに出来なくても仕方がない。
 
 
「愛の存在」でいて
お母さんを幸せに出来ない、
お母さんを笑顔に出来ない無力感を味わうぐらいなら、
 
「毒の存在」でいて
私が傷ついていたらいいんだ…
 
 
 
なんかうまく表現出来ないけど、
そんな場面を思い浮かべたら
涙が出てきた。
 
 
自分のお母さんを思う思い、
健気さに
泣けてきた。
 
 
これが
私にとって「毒の存在」でいることの
メリットなのかなぁ。
*******
 
いつまでも
「毒の存在」としてしんどい人生を生きるのか?
 
それが楽しかったら、それでもいい。
 
 
でも、
嫌ならやめよう。
「愛の存在」になろう。
 
「愛の存在」に戻ればいい。
 
 
 
人が勝手に傷つくことを受け入れよう。
お母さんも、しっかりと傷つけさせてあげよう。
 
今まで私が盾になってお母さんを守ってきた。
傷つかなきゃいけないのは私じゃない。
ちゃんとお母さんにも傷ついてもらおう。
 
 
そして
傷ついて行く人を見守る強さを持とう。
 
 
私は私に期待する人生を歩もう。
私は「毒の存在」ではなくて、「愛の存在」なのだ。