14歳の頃から35歳頃まで、
長いこととある新興宗教を信仰してた。

入信のきっかけは、自分が学校行けなくなったから。
正確には、学校行けなくなったことそのものもやけど、
原因不明に喉が苦しくて、教室に座っていられなくなって、それが苦しくて仕方なったから。

私のことがきっかけで先に母が1年前に入信し、
高校受験直前に不安でどうしようもなくなって、何でもいいから藁をも掴みたい思いで、
自分の意思で入信した。


最も多感な時を、その宗教と共に過ごした。

途中、一時的に離れたこともあったけど、
青春時代の殆どをその宗教の活動とその宗教が関わるボランティア活動に全てを捧げてきた。


今となって客観的にその宗教を見てみると、
今現在、巷で流行っている様々な要素をかなりの割合で先取りして取り入れている先進的な宗教だった。

スピリチュアルなこと全般、
宇宙の法則、
先祖供養、
先祖の因縁、
前世、再生転生、
伊勢神宮、出雲大社等の神社、
聖書、
霊障、
言霊、
想念、
感謝の言霊、波動、
愛の波動、
鏡の法則、
奇蹟、
ハンドパワー系の技、
自然食品、有機農法、
no 添加物、no 薬害、
etc...


ここ10年ぐらいで世の中にブームになってきたことを、10代前半の時から身近に関わってきた。

15歳で入信した時は、親からの勧めで無理矢理ではなく、自分の意思で入信したので、余計にその教えの数々を自分の意思で受け入れてきた。

だけど、鵜呑みにして信じるのは昔から嫌な性格だったので、
自分なりに人体実験して確証を得たものを信じたり、
その宗教以外の専門家が書いたものを読んだり話を聞いたりして調べて裏付けを取ったりして、
自分の実としてきた。

だから、大人になってからブームに乗ってやっている人たちを見ると、ちょっと怪訝な目で見てしまう。

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と、こんなことを書いたのは、今日、当時の宗教幹部をしていた方と35年ぶり?ぐらいに会ったから。

私が電車に乗って遠くに出掛けられない状態にあることを知って、はるばる都会から会いに来てくださったのだ。


そんな人生の半分近くを捧げた宗教をやめたのもそれなりの理由があったからだし、再びその宗教をやろうとは思っていない。

それは、今の私の苦しさの大半を作ったのは、その宗教だったと思っているから。
自分の気持ちを蔑ろにし、無きものにするのに、その信仰をしたことが大きく影響していたから。
(大抵の新興宗教はそんな感じだと思う。感じること、思うことを全て否定することが根底にある。自分に罪がある、自分が全て悪いというベースがないと、信仰が成り立たないから、徹底的な自己否定をしまくる。)


それでもその人に会おうと思ったのは、入信間もない頃の2~3年、その方にとてもお世話になったこともあるけど、人間的にとても魅力的な方だったから。

自己否定を強いられる信仰環境にあって、その方は個人としては、ちゃんと受け止め、否定をしない人だったから。


かなり昔に幹部は辞められたけど、今は一信者として私を懐かしみ、どうしているかと気にかけてくれていた。

私は私で、宗教絡みの母への報われない思いを、母と同じ信仰をするその方に少し話してみたい気もしていた。
母もその方のことをとても信頼していたから。

私が話しても話しても母は受け止めてくれないけど、その「元幹部」の方が話したら、受け止められるんじゃないか、とも思ったから。
(母は自分の頭で考えずに、鵜呑みにして信じるタイプなので)

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昔の懐かしい思い出話やら、御家族の話やら、多少の?信仰の話やら、
(青春時代の大半を捧げてきたし、リーダーやったり、奉仕活動や布教活動を積極的にやったり、私自身も幹部を目指すぐらい頑張っていたので、未だに一般的な信者さんよりも頭に教義教理は入ってると思っている)
4時間ぐらい話し続けた( ̄▽ ̄;)


まあ、その方と話せたということもあるけど、きちんと教えを理解している方と話すと、そこまでおかしなことを言っている訳ではないな、と。

そして、50年以上の昔から、よくぞまあ、今、大流行りに流行っている諸々のことをやり続けているなぁと。←この宗教が。
それは凄いなぁ、と思った。

認知療法で使うような歪んだ思考の書き換えのワーク的なことや、思考の整理術みたいなのも取り入れていたり、それには感心する。

人を変えることは出来ない、変われるのは自分だけだ、とか、
人にされて嫌だったこと、辛かったことは、実は自分がしていたことなのだ、ということとか、
何となく心屋チックなことも言っていたり。


ただ。
家に帰ってから落ち着いて考えてみたら、
話している時も、もやっ、ざわっとしたのは、

人は変えられない、変われるのは自分だけ、という話も、
人にされて嫌だったこと、辛かったことは、実は自分がしていたことなのだ、という話も、

結局、目に見えない自分の前世からの罪のため、先祖が犯してきた罪のため、
それはちょっとやそっとの奉仕や奉納で消える罪ではない、
何世代にも亘って自分の感情を押し殺して感謝の想念で奉仕奉納をし、自分を犠牲にしてまでも人様のために生きる...

そこに行き着くのだ。

我々には罪があって、自分が一代頑張ったぐらいでは消えない罪なのだ。
だから、いつまでも苦しみがあっても不平不満を言わず、感謝して、人様、神様のために頑張り続けるのだ...
苦しくても仕方ないのだ、自分や先祖に罪があるから。
それを少しでも消すのが現世での使命なのだ...


あーーー、これが苦しかったなぁ。
不平不満を言うことも許されない、言霊の働きがあるから。
不平不満を思うことも許されない、想念は伝わって、自分に跳ね返ってくるから。
感謝の言霊を使い、感謝の想念を発する。
苦しくても不満でも笑顔。
(だから、昨今の感謝ブーム、ネガティブな思いを発しないブームには辟易してる。それを20年以上やり続けた末路が、こんな感じでっせ、と。)


そして、その罪をちょっとでも消しておかないと、子どもたちにもずっと引き継がれていくから。

でも、やってもやっても一代では消え切れないらしいから...現世はただ苦しいだけですな。
そして、自分の悲しい思い、悔しい思い、腹立たしい思い、恨みの思い、憎しみの思い、そんなネガティブな思いは思うことすら許されない。
封印しなきゃならない。

元々、感情出せなかった環境にいたけど、この信仰することで、確実に感情封印が強化されたな。


やってもやっても報われない、ひたすら自分の感情を否定して封印して。
でも、今世では何も報われない。
ひたすら、まだ見ぬ子孫のために頑張り続ける。

...あー、一番大事にしなきゃいけなかった自分を一番蔑ろにし続けてきたなー。
めちゃくちゃしんどかったなー。
もう、訓練として自分の感情を感じないようにし、封印してきたから、こりゃあ、ちょっとやそっとで気持ちなんて出てこないよなぁ。

...ということを、久しぶりに客観的に見ることが出来た。

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そして、もうひとつ別の視点。

そんな世界に生きていることがしんどくて、母との絡みもあって、15年程前にその宗教は辞めたけど、
今日、いろいろ教えのことを話したり、今流行っている諸々を多感な年頃の35年以上の昔からやっていたことを改めて感じて見ていて、

私にとっては、自分を蔑ろにすることを強化した宗教人生だったし、私にとっての黒歴史、この宗教に関わってなければ、もう少しラクに生きていけてたんじゃないかとずーっと思ってたけど、

確かに、あの宗教に関わったからこそ、今の私がいるのだなー、ということもしみじみ感じた。

今の流行りの諸々に対しても、子どもの頃に体感として身についたものは、今でも生きている。
それらが今、面白いぐらいにブームになっているのを見て、冷静に見つつも、多分ちゃんと感じられていると思うし、どの分野の話も最低限の知識は持ち合わせていると思う。

そんなこんな成分も含めて、やっぱり人生の半分近くを占めていた宗教生活やったけど、それも含めて私なんだなー、と。
それがあったから今の私がこうやって構成されているんだなぁ、と、負け惜しみではなく、素直にそう思えたのは、新たな感覚だった。

ほんま、今日話すまでは、この宗教時代を生きてきたことは、マイナスしかなかったと思っていたから。
私を蔑ろにし、私をより苦しめるためだけに存在していた時代だったと思っていたから。

でも、その時代が間違いなく私を構成し、作り上げてきてたんだ。


なんか、そんな部分に気付けたことを書き記しておきたかった。

まあ、自分の気持ちを押し殺してするような新興宗教は2度としないけどな( ̄ー ̄)ニヤリ


だらだら書いた、まとまりのない記事( ̄▽ ̄;)