あまりに早すぎる、もう年の瀬である。
このスピード感たるや、気づいたら私も義母と同じようにあの世にいるに違いない。
義母の遺したのは大量の着物と茶道具。
それも、一つ一つが軽く数十万は支払ったであろう品々である。まだ貴金属なら売れたのに、シミとカビにやられた着物…えらそうな銘が記された、古道具屋が二束三文で買い叩きそうな茶道具…
ここで思い返すは、義母の家のローンをわが夫が払い続けたこと。子供にそんなものを払わせておきながら、二つ三つも我慢すればば簡単に年間のローンなど払えそうな品物を買いあさっていたのである。
茶道というのは、格付けの高い指導者に習えば一回数万、口伝の奥義を習えば師匠にエクストラで都度数万年、免状を取るたびに師匠となんとか千家に数万〜数十万、茶会という名のパー券を付き合いで買えば一回一万は軽くかかるし、茶室をつくり庭をつくればうん百万から天井知らず、本来金持ちの道楽である。
子供にローンを肩代わりさせるような貧乏人が触れていいものではない。義母は見るかぎり、家一軒分はぶっ込んでいる。家、じぶんで買えたじゃん…
夫は自分の母親なので「いやー我儘だったねw」で済ませているが、
ねぇわ…
思った以上だコレ
たまたま我が家が海外ドサ周りで家を買うチャンスが来なかっただけで、これ日本にいたら息子一家は実家のローンを払い続けながら家を買うことができずに社宅に住まい続けろってことでしょ。名義が夫であっても、そんな不便を強いておきながらなんだこれ?
子供に申し訳ないとか微塵も思わずに散財。その感覚、わかんねぇよ。
どうせなら宝飾品で着飾っていてくれた方が回収できた。
茶道具には、道具屋の名前がちらほらとついていた。
昔私が習っていたときに師匠が御用達にしていたのと同じ名前だ。婆さんが死ねば道具たちはゴミのような値で手元に戻ってくる。それをまた次の婆さんに高値で売りつけるんだな、と悲しい構図が見えた。
未開封のものもあった。道具屋の言うがままに買ったであろう道具類は、夫が買ったぼろ家にぱんぱんに詰まっている。悔しいから道具屋には売らない。
とりま、見た目が偉そうな道具を少し回収してきた。
私は数十万の茶碗で茶漬けを食ってやる。茶入には七味でも詰めてやる。歴史と伝統のマルチ、茶道は一生やらない。
知識と教養を要するため一見高尚そうにみえるのだが、なかみは薄暗いマルチ。いまだにマルチは蔓延っているところをみると、人間はほんとうにマルチの構造によわいんだな。
商売のマルチは上に行けば金が手に入るという夢を売るが、文化のマルチは、家元制という文化保全システムに上納金を吸い上げられることにより、「何者かになった感」が手に入る。
金を払ったぶんドヤれる銘や格付けが虚栄心をくすぐる。表は枯淡だの侘び寂びだのできれいに鍍金して文化という大義名分を持ちながら、裏は課金がものをいう煩悩がたぎっている。さすが千利休は商人だけある。ものすごい商才だ。
文化の担い手は金のある人がなるべきで、貧乏人は文化保全に老後を犠牲にしてはならない。