きっと、私の拙い文章でも。誰かに届くはずなんです。
ここ数年花粉症は落ち着いてます。やったぜ!
どうも弥里です。やっと義務教育終わったよ…
さて、突然ですが。今回はちょっと真面目で重たい話です。
苦手な方は今すぐタブを閉じろ。うん。
さて。今日は3月11日ですね。
あの日から8年という月日が経ち、様々なことが変わりました。
前に進んで行ったり、進まなかったり。今日は、私が経験したこの8年間についてお話します。
2011年3月11日。当時、私は宮城県のとある小学校に通う1年生でした。
私の父方の祖父は、県北の気仙沼という港町に住んでいました。きっと知っている方も多いでしょう。
もともと消防士をしていて、厳格だけど優しい人でした。私はとにかくおじいちゃんっ子で、帰省するたびに膝に座って他愛のないことを話したり、祖父の好物である黒かりんとうを一緒に食べたりしていました。
車を走らせて海岸に行って、よく釣りをしていました。私も祖父も、町の人は皆。海が大好きで、海と暮らしてきたのです。
まだ60歳だったので、自分の結婚式には呼べるだろう、曾孫を見せてあげられるかもしれない。
そんな幸せな日々が、幸せな記憶が、ずっと続くと信じてやまなかった。それが“当たり前”だと思っていました。
あの日、海は全てを奪っていきました。
町も、人も、思い出も。そして、流れていた時間さえ。
祖父とは、連絡がつかなくなりました。父は何度も気仙沼に向かい、手当たり次第避難所や遺体安置所を探し回りましたが、どこにも祖父の姿はありませんでした。
私は、ずっと信じていました。おじいちゃんは元気にしている。きっとこっちに来るのが難しいだけなんだ、と。もはや、それは自己暗示のようななにかだったんだろうと思います。ニュースで地元の惨状が映っているのに耐えられず、何度も目を背けました。
結局何の手掛かりも掴めないまま半年が過ぎ、夏になり、8月のある日。ついに両親は、祖父の葬儀を執り行いました。
もちろん、遺体はありません。行方の分からない人間の葬儀をするということは、その人の死を受け入れるということ。両親にとっては、苦渋の決断だったことでしょう。
それでも、私は祖父の死を受け入れられなかった。読経の間に突然現れて、
「俺は生きてる!勝手に死んだことにするな」と喝を入れるんじゃないかな、なんてバカみたいなことを考えて。
これまでの8年間で、私はやっぱり祖父の死を受け入れられない気持ちが心の中に常にありました。海も見たくなかった。
でも、こうして色々と綴っていくことで、自分の心に踏ん切りをつけられるような気がしたのです。
今まで逃げ続けた現実と向き合い、正直な気持ちを書くことで、きっと祖父に私の想いが伝えられるはずで。
今なら、海にだって行けると思う。そんな気がする。
さて、ここまで長々と思い出語りを続けてきましたが、ここまで読んでいただいた皆さんにお伝えしたいことがあるのです。
家族がいて、友達がいて、恋人がいて。それは、決して当たり前のことではない。
日々の小さな幸せは、積み重なって大きな幸せとなります。
明日、自分が死んでしまったら。明日、大切な人を突然失ってしまったら。もしそうなったとき、きっと様々な形で後悔をするでしょう。
でも、そうなったときに少しでも「一緒に居れてよかった」と思えるように、一日一日を大切に生きてほしい。
そう願っています。
あの日から数えて、8度目の春がやってくる。ようやく、私は前を向いて歩きだせそうです。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
じいちゃん、私、高校生になるよ。この先もずっと、見守っていてね。