去年、日本に帰る直前の話。
深夜ヨンショーピンにほど近い、森林に囲まれた道路を車で走ってたときのこと。
突然運転していたホストマザーと、助手席にいたホストファザーが「うわあっ」と叫び、後部座席にいた私が「何事?」と思った瞬間、車にドーンっと衝撃が走った。
車はそのあと急停車し、車内にはただならぬ空気が。
二人は相当狼狽している模様で、スウェーデン語で何か口走っている。
私はわけが分からず、何度も何が起きたのか聞くが、私のことなど構ってられないようで無視される。
お母さんはそのあと車外に出て、車を点検し始める。
そして、ようやく「鹿をはねたみたい」との答えが。
しかし、その鹿はもう走り去ってしまったようで、周囲には静けさを湛えた暗い森が広がっているだけ。
「鹿か…でもいなくなってるってことは、自力で走れたんだな。無事でよかった」などとぼんやり思った矢先、お父さんも車外に出て、鹿をはねた場所に印をつけ始める。
そしてお母さんは、携帯電話を取り出しどこかに連絡。
聞くと、どこか公的機関に鹿をはねたという報告をしているらしい。
さてここで問題。二人はなぜこのような行動をとったのか?
私は最初、その公的機関の職員が鹿を探して手当してくれるのかなと思った。
もしくは、鹿をはねると罰金かなんか払わなきゃいけないのか?とかも。
でも、正解は…
「その公的機関の職員が鹿を探し出し、その鹿を殺すため」だった。
私は意味が分からず、生き延びれたんだからそっとしとけば良いじゃん!と反論したが、彼らの言い分はこうだった。
「鹿や馬などの動物の脚の構造は複雑で、損傷を受けると、もう治る見込みはほぼない。
したがって今生き延びていても、足の怪我に何日も苦しんだ挙句死んでしまうだろう。
その前に、人間の手で楽に死なせてあげるのが筋。どうせもう元にはもどらないんだから。
怪我した競走馬を安楽死させるのと同じ論理だよ。」と。
…みなさんはこれについてどう思いますか?
最初、私には、人間様の手で「死なせてあげる」っていうのが、どうも人間中心に物事を考える、傲慢な意見に感じられた。
鹿にしてみれば、苦しんじゃかわいそうだから殺してあげるよなんて余計な御世話なことこの上ないやん!
また、西洋特有の「自然は人間が管理下におくべき対象」という理念から派生しているんだなとも思った。
日本だったら、たとえ人為的な過失によって鹿が致命傷を受けたとしても、殺すことまではしないだろう。
生死は自然の摂理にのっとっているのであり、人間が管理するようなものではないから。
人間は自然の一部なのであって、その上に立つ者ではないから。
…でもここで、「日本でも、怪我した競走馬は殺してるよな?」ということを思い出した。
野良犬は街にいるべきものではないから、捕獲されて安楽死させられてるし…
動物実験でマウスを大量に殺すことは?
野良猫に去勢手術を受けさせることも不自然だよね?
なんだかんだ、日本人も動物の生死を、人間の都合の良いように管理しているんだということに気づいた。
人間様が万能の神みたくなってた。
それはおそらく、文明開花に即して輸入された西洋の考え方に影響されているのだろう。
でもやっぱり、私の精神の根底には、怪我した鹿を、かわいそうだからって殺すことに抵抗を覚えるという、相反する考え方が存在していた。
対等な生き物として、鹿に畏敬の念みたいのを持っていた。
鹿には鹿の生命を全うする権利があるじゃない。
(これ日本人って一般化しちゃまずいかもね。私だけかもしれないから。)
けれど、ここで、筋が通っていたのはスウェーデン人の言い分の方なのかも、と思った。
だって、文明を築くには、人間が生きやすい社会を作るには、人間中心に物事を考えるしかない。
その上で好ましくない影響を与える他のアクター(動物や植物など)を管理していくのは、当然やむを得ないことなのだから。
鹿をかわいそうだからって殺すのも、動物を徹底的な管理下においているからこそ。
私はどっちつかず。
都合の良いときだけ「上から目線な態度を自然にとることはやめようよ!」とか思っちゃって。
未開の土地に放り込まれたら、すぐに人間以外のアクターの犠牲の上に成り立っている先進国の便利な生活が恋しくなるくせに。
うーん、日本人としての私のアイデンティティって不安定。
西洋化されているようだけど、やっぱり根底には何百年も変わらない八百万の神様的考え方が存在していたのかもね。
まあなんにせよ、そこまで徹底して管理しようとするスウェーデン人に、なにか私の精神とは異質なものを感じて、空恐ろしくなった夜でした。