なるべく、私的な感情で動かない
客観的な洞察で動くようにしてください
この事は、非常に都合がいいんです、自分の健康に
自分と他人、そして環境を客観的に捉えてください
そうすると、そこで起こりうることが
想定できて事前に準備ができます
例えば、自分と怒りっぽい感情むき出しのタイプの人と
明日、一緒の共同作業があったとします
そして、今日は暑くなりそうだ と朝のニュースで
流れていたとします
職場に行く途中に、潜在的に、あいつは俺と違って耐久力が低いから、たぶんこの暑さでちょっとしたことで怒るだろうな
と、すでに心のセッティングが出来上がっています
潜在的に、それに対する対策も
心の中でセッティングされているはずです
そうすると、人的な摩擦も最小限となるはずです
これを、怒ったから、怒り返す、という小学生同士のような対応では、トラブルは増加します
まずは、客観的に引いてみる、ことは大切です
幼稚園のとき、黒板に
「みんななかよし」
と書かれていたことを思い出される方は多いのではないか?
みんなで一致団結してしましょう
という考えはその年代にとってみれば非常に適応的と思う
これを大人になって冷静に見てみる
そもそも人間は同じなのだろうか?
そもそも人間は平等なのだろうか?
もう、理性で判断できると思う
「みんななかよし」とは、親や教師がなるべくけんかなどのトラブルを起こさないための刷り込みなのだ。
平均化すれば管理が楽なのだ。
幼稚園児の時代は、みんな個性なく一様に、生物学的プログラムに従っているから適応的なのだ
ところが中学生を過ぎるころからいわゆる個性が強くなる
読書が好きでたまらない子、理科の実験が好きな子供、スポーツに情熱をかける子、おしゃれを覚える子
もともと、人は違うことが自然なのです
身長、容姿、頭脳、運動能力、趣向……
様々な要素で、違うことが自然なのだ
これが、25歳を過ぎて完全な社会人となる時
幼稚園児の記憶を潜在的に引きずっていると様々な
同調圧力に潰されそうになる
「同じ大学を出たのになぜ、○○は給料が高いんだろう」
「○○ちゃんは私と同じくらいの美人度なのになんであんな素敵な彼と結婚できたのだろう」
「同期の○○がやるなら、俺もこのプロジェクトに参加する」
「もうこの計算ができていないの、君だけだよ。なんでみんなできているのに君はできないの?」
など、みんな平等でなければいけない
という思考の原点が、人生においての
様々な判断をくるわせてしまう
そもそも人は平等なのだろうか?
前述したように人を構成する要素は各人違っている
唯一、法の下に平等である、だけである
それを平等にしなければならないという幼稚園児からの刷り込みが人をストレスに追い込む
「30代になったら、家を持つのが当たり前」
と、稼いでいる同期に言われたら同じ歩調をとっていない自分がみすぼらしく見える。そして、自分としては借家でいいのに
ある日、ポンと数千万の家をローンで買ってしまう。
そして、数年後、そのローンで苦しんでしまう
行動原理は、前述の同調圧力である
では、どうすれば?
私とAさんとは、いろんな要素が違う
だけど、違う違う生き方、人格を認める
というより上位の考え方を大人としてとるべきである
Bという人格とCという人格が出会ったとき
「仲良くしましょうね」
とふたりが一生懸命、価値観を合わせていく作業が滑稽である
お互いの時間、エネルギー、体力、金銭などを無駄に消耗する
唯一、
「私たちは違う人格、価値観を持っている、だけど、違う存在どうし認め合いましょう」
という考えをとる時、お互いの人生は効率よく動くようになる
利害関係が一致するときだけ、共同作業をすればいい
幼稚園の黒板に書かれた
「みんななかよし」
が、その時期を終えても日本社会で引きずっている



