メールが返ってこねぇわけ。
塩分とりすぎて喉が渇くわけ。
もう・・・
インドに行きてぇよ。
すべて忘れて、いや、たとえ忘れずとも
すべてを放棄して
現実を忘れるが為の旅がしたいもんだ。
そんな旅はたとえ不潔で、寒く苦しい旅だとしても
きっと満足のできる旅に違いない。
そう思うわけ。
そう思う自分は
いつまでたっても子供のままなわけ。
あぁ人は何のために生きているんだろう・・・
こうゆうことを考える余裕がある人というのは
お腹いっぱい飯が食えて、つまり不自由のない暮らしができて
教育を受けられるという一定の水準の生活ができるからなんだろう。
日々、飯を食うために一日を費やさねければいけない人々は
そもそも人生について考えるという余裕はないはずだ。
なぜなら毎日に生きることで精一杯で
人生とは何かついて考える余裕はないことだろう。
それについて考えることが食料を生み出すわけではない。
お腹いっぱいご飯が食べられて、電気ガス水道の完備した
家に住み、お酒やタバコ、旅行もできて、大学で高等教育を受けられるという
恵まれた人間が「毎日が楽しくない」なんていうことは
甘えなのか、我儘なのか、堕落なのか・・・それとも先進国の必然なのか・・・
完全に俺は恵まれているのに
世界には勉強をしたいのに、勉強ができず
字も読めず、書けない貧しい人達がいるのに
満たされないなどと言う俺は完全に
自分より苦しい生活をしている人を侮辱し冒涜することになるのではないか。
そう思っては何度も自分を抑えてきたが
やっぱりそれも自分の中ではギリギリなんだよね。
公共広告機構のポスターに
「勉強したい。でもその前に食べたい。」
この短い文は、物事の本質を突いていると思う。
実は勉強ができるということは幸せで
本当は勉強は楽しいもの。
勉強は非常に文化的な活動だが
最低限の生活ラインが維持できて
成り立つものなのだろう。
だからこそ、勉強ができることはとっても幸せなことなのだ。
働けるということは幸せなのだ。
俺は幸せの基準を高い位置におきすぎてしまったようだ。
俺は今、幸せに違いない。