伝説の実演販売員と言われた河瀬和幸さんという方の話です。

 

その日、河瀬さんは大手有名雑貨店で、高級石鹸を販売していました。

 

平日で、店が開店したばかりの時間。お客さんはまだほとんどおらず、店内は閑散としていたそうです。

と、エレベーターから車付きの大きなベッドが降りてきました。

 

見ると、そのベッドには、おそらく脳性麻痺によって両手両足を動かすことができない女の子が横たわっています。

 

どうやら、施設の先生たちに付き添われて、店舗を訪れたようでした。

車付きの大きなベッドを移動させるのは、他のお客さんの迷惑になるかもしれないという配慮から、開店直後の人がいない時間帯を見計らってやってきたのでしょう。

 

女の子の名前は「ミサちゃん」でした。

中学生くらいでしょうか。

付き添いの先生は、「ミサちゃん、ほら、(商品が)いっぱいあるね。楽しいね~」と話しかけています。

 

それに対して、女の子は「ァー」とか「ウー」と返事をしていました。

その少女を見た河瀬さんはこんなことを思います。

 

「この子に、お買い物の楽しさを伝えたい」

 

河瀬さんは、いつも高級石鹼を売るときと同じように、ベッドの少女に笑顔で話しかけます。

「お嬢様、お手をどうぞ」

 

河瀬さんの言葉を聞いた付き添いの先生は、「ミサちゃん、おじさんが手を洗ってくれるんだって。やってみる?」と少女に話しかけて、ベッドを河瀬さんの前へ進めます。

 

わずかしか動かせない手を、河瀬さんの前に差し出そうとする少女。

その手を引っ張り出して、両手で支えてあげる付き添いの先生。

 

「じゃーん。では、手を洗うね。この石鹼はお肌がスベスベになるよ!」と河瀬さん。

いつものように商品の説明をしながら、少女の手を石鹼で泡立て、それを洗面器のお湯で洗い、タオルで拭いてあげます。

 

洗い終わった手に触れた、付き添いの先生が声をあげます。

「どーれ、ミサちゃん、まあ、綺麗になったわね。スベスベだー!どうもありがとうございました!」

そう言って、ベッドを動かして立ち去ろうとした時です。

 

「アーッ!アーッ!」と少女が声をあげたのです。

「えっ、何?ミサちゃん、なになに?」

少女の口元に耳を寄せる先生。

 

「えっ、欲しい?欲しいの?石鹸?ちょっと待ってね。買えるかな?一個591円だよ」

「ウーッ!ウーッ!」と答える少女。

「ミサちゃん、買えるね。ミサちゃんのお小遣いで買えるね。買うの?」

「ウーッ!」

 

先生はベッドの下から、黄色の可愛い財布を出しました。

河瀬さんが一緒にレジまで行くと、少女はお会計の時に、河瀬さんに向かって、ニッコリと微笑みました。

そんな少女の姿を見て、付き添いの先生は大泣きしながら、河瀬さんにお礼を言ったそうです。

 

「ありがとうございます。ありがとうございます。こんな経験をさせたかったのです!」

 

河瀬さんは、この時のことについてこう語っています。

「商売冥利に尽きました!」

こんな体験こそが、モノを売るという行為の醍醐味なのだと…。

 

もしかしたら、それは、少女にとって、「生まれて初めてのお店でのお買い物」だったのかもしれません。

 

お店でモノを買う。

そんな、私たちが普段、何気なくやっていることが、少女にとってはこの上なく楽しい体験だったのです。

 

 

 

 

 

西沢泰生著「ほろりと泣けてくるいい話33」より